初めて「落ち込む」という感覚を知ったのは中学生の頃だった。
中学2年生だったか。
学校の敷地から駅へ向かう道は、途中から線路に沿っている。
丁度、道が線路と平行になる、電車がトンネルから出たあたりでのことだった。
私の理解の限りでは、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下に」を読んだからだ。
もはやどんな話だったのか覚えていない。
ただ、頑張っても頑張っても報われない?そんな話だった??気がする。
落ち込む感覚は、数日続いた。
その他の感情や気分については、いつ覚えたのか、いつ最初に認識したのかなんて、全く覚えていない。ただ、この「落ち込む」感覚の最初だけ、ずーっと意識的に記憶している。
その日は、茶色のプリーツのスカートをはいていたような気がする。
大学生になってからか、社会人になってからか、やっともう一度「車輪の下に」を読んだ。
ある時から、また読んでみよう、とは思っていたのだが、実際に再度読むまでには時間がかかった。
2度目に読んだ後、何故以前に落ち込んだのか全く理解できない!と感じたことを覚えている。そんなに落ち込むような話ではなかったのだ。
でも、話の内容は覚えていない。全く覚えていない。
これを書きながら、今、ふと、思った。
2度も読んだのに、しかも、特別な位置づけにあるはずの話なのに、内容を全く覚えていないなんて、もしかすると、そこに何かが隠されているのかもしれない、と。見たくない何かが。
今、ふと、もう一度読むべきなのか、と、感じた。
正直、読みたい気はしてないのだが。
私がほとんど文学書を読まないのも、もしかすると同じ理由なのかもしれない。
ブログを書き始めたほんの数分前には、考えもしなかったこと。
今日、何故、「車輪の下に」について書こうとしたのかは、少しだけ落ち込み気味だった夕方、その過去の記憶が甦ってきたからだった。ある気分を生まれて初めて感じた時のことをここまではっきりと覚えているなんて、面白いと思ったからだけだった。
でも、これで、私はまた「車輪の下に」を読まなければならなくなった。
気が重い。