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エソ基礎8月後半:真理の啓示

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『トランスヒマラヤ密教入門』8月後半は、第2巻:生命としての地球、第2章:真理の啓示を学ぶ。

最初に真理(Truth)について、いくつかの引用が続くが、神尾先生もブログで引用された部分、これは、本当に大切なこと、日々の生活から、大局的な社会的姿勢において、心すべきことと感じるので、ここでも引用してみる。


「すべての正しいアイディアは性質上、一時的なものである。そのため、部分的に正しいものとして認識され、より大きな真理にその座を譲らなければならない。その時代の事実はのちに、より大きな事実の部分とみなされるようになる。

人間は不朽の知恵のいくつかの小さな原理を明瞭に把握し、それらの正しさを確信できるようになったため、より大きな全体を忘れて、・・・そして、それが限定になり、彼を捉えて彼の進歩を阻むものになる。自分には真理があると確信しているため、他の真理を見ることができなくなるのである。

真理かもしれないものについて自分自身で具体化した概念の真実性を確信できるため、自らの脳の限界を忘れ、・・・個人的な分離したマインドによって形態へと形成されていることを忘れてしまう。その小さな真理のために生きるようになり、それ以外のものは見えなくなる。そして、人々に自分の想念形態を押し付け、[想念形態に、]憑依された狂信者になる。たとえ世間が彼を正気と見なしたとしても、メンタル的にはアンバランスな人間になってしまうのである。」
(TH第2巻第2章1.真理.P152-153:『ホワイト・マジック』より)


この引用から、すぐに浮かんだことは、3つ。

1つは、私が携わるセラピーやヒーリング、スピリチュアルな教えの分野では顕著であるが、何かの教えに感銘を受け、もしくは、それが真実だと思えた時、意識的か無意識的か、視野が狭くなったり、他を排除する傾向がいくらかでもでてきてしまうことである。ある医師が、『セラピスト達は、自分がやっていることが一番だと思い、他を排除している、、』と何度となく指摘していた。そうでもないだろう、とは思ってはいたが、改めて、振り返る必要がありそうだ。

もう1つは、宗教を信じる心について。渡米して間もないころ、敬虔なクリスチャンの友人ができた。高校時代キリスト教の洗礼を受ける直前でやめた自分の経験と知識から、彼女に「キリスト教の教えはよいと思うけど、排他的なところが好きになれない」と言ってみた。彼女はためらいもなく、「自分が本当にこの教えが一番だと信じているのだから、他がよいと思えないのは当然だ」と返した。その時の私は、本当に信じるということはそういうことなのだろうな、仕方ないな、と妙に納得したものだった。

もう1つは、科学、学問の世界における姿勢。特に、偉大なる発見があったり、思想が生み出されると、発見した本人のみならず、世界的にそれが真理になってしまう。世の中全体が、その考え方の枠組みでしかものを見ることができなくなってしまう、ということ。DNAを絶対視する生物学におけるセントラルドグマや、医学における機械論的身体の見方など。科学の歴史において、いくつもの偉大なる発見が、度々覆されてきたにもかかわらず、、だ。物質主義や資本主義などの思想も同じこと。


面白いことに、科学については、啓示(Revelation)の箇所にこんな風に登場していた。

「キリストの時代以降の真の啓示の多くは科学の線に沿って世界にもたらされた。…科学の啓示は、それが基本的根本的なものであるとき、宗教の啓示と同様に神聖なものであるが、その両方が人間の要求を満たすために悪用されてきた。科学が人類の古傷を癒し、よりよいより幸福な世界を築くために最善を尽くすようになる時代はすぐそこまで来ている。」
(TH第2巻第2章3.啓示.P161:『グラマー』より)

科学的大発見は、やはり啓示であることには違いない。ただ、先の引用にあるように、それは一時的なものであり、いずれより大きな真理の一部になるにすぎないということを知り、そのような視野で受け止める必要があるということだ。

それにしても、「その両方が人間の要求を満たすために悪用されてきた」とは、確かに。科学においても、宗教においても。

私が洗礼を受けなかった理由は、キリスト教の名のもとに、いかに沢山の悪行が行われてきたかを世界史で学んだからだった。人間が「人間の要求を満たすために悪用」したから、、とは明確には理解できていなかったんだな。あの頃は。


その後、私は大学で歴史学科に進み、西洋史を専攻した。しかし、選んだ時代は、西洋史の花形ルネッサンス期でも無く、ローマ時代でも無く、古代ギリシアだった。キリストが生まれる以前の時代だ。
(余談 :-))






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by phytobalance | 2016-08-25 19:49 | アリス・ベイリー・AB

エソ基礎8月前半 奉仕

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エソテリックヒーリング基礎講座も早4か月目。
トランスヒマラヤ密教入門第2巻第1章「生命としての地球」の続き。
今回のテーマは「奉仕」。

秘教では、進化には、「瞑想」と「奉仕」が不可欠とされている。昨今、多くの人たちが、いろいろな形で瞑想を試みている。そして、数々の震災、災害を経て、日本ではここ20年くらいの間に、いわゆる「ボランティア」が市民権を得て、身近な活動になってきた。ボランティアは、一般には、奉仕とも解釈されているけれど、秘教では、「奉仕」とは何かを深く説いている。


「真の奉仕は愛あるハートと知的なマインドの自然な流出である。それは、正しい位置にあり、そこにとどまることによる結果である。それは、霊的なフォースの必然的な流入によって生まれるものであって、物質界での忙しい活動によって生まれるのではない。・・・」
TH第2巻第1章16.奉仕者と奉仕.P127:『ホワイト・マジック』より)

ハートからの愛があるだけでは、よろしくなさそう。
知的なマインド、、とは、情緒的な性質や沸き立つどのような低位の欲求にも妨げられることのない、想念形態(具体化されたエネルギー)を創造するもの、、とされている。だから、ただ、頭を使っていればそれに相当するわけではない。知的なマインドを正しく働かせるのは、そう簡単ではないのだ。(真の奉仕とやら、できそうにないなー。)


「・・・彼(真の奉仕者)は自我を忘れて奉仕し、献身的に振る舞い、自分が成し遂げた達成の偉大さや失敗について語らず、自分の価値や有益性についての先入観を抱くことはない。」
TH第2巻第1章16.奉仕者と奉仕.P127:『ホワイト・マジック』より)

つまり、、、「連休を利用して、被災地にボランティにア行ってきました―!」のようなツイートやインスタはない、ということなんですねぇ。ドキッとしますがね。


2巻第1章「16.奉仕者と奉仕」(p126p143)には、さらに、「奉仕の動機」、「奉仕の方法」、「行動に伴う態度」、が説明されている。どれも深い教えなのだけど、以下、「行動に伴う態度」から抜粋。


「・・・彼(完璧な奉仕者)は、自分が行ったことへの誇りや達成できなかったことによる過度の意気消沈に苦しむことはない。彼は終始最善を尽くし、後向きの黙想に時間を浪費せず、次なる義務の達成に向けて着実に前進する。過去の行いをくよくよ考えたり、かつての業績に思いを巡らせたりすることは退化であり、奉仕者は進化の法則にかかわるよう努めるべきである。・・・」
TH第2巻第1章16.奉仕者と奉仕.P135:『秘教瞑想に関する手紙』より)

最善を尽せばよいのだと、説いている。最善を尽くしたのであれば、振り返ることも悔やむこともなく、ただ、また、先に進む、、、。
確かに、最善を尽くしたのだから、それ以上もそれ以下もないのである。だから気にするな、、と。
わかるけど、これはそんなに簡単なことではない。


そして、さらにこう続く・・・


「・・・自分が知っている限りの最良のことを誠意をもって行ったのであれば、結果が予期したものでなかったとしても気にすることはない。内なる自己が平静なまま責めることがないならば、非難を浴びせられたとしても気にすることはない。・・・・・友人、親戚、子供、かつて喜ばせてくれた評判、周囲の仲間の賛同を失ったとしても気にすることはない。」
TH第2巻第1章16.奉仕者と奉仕.P135:『秘教瞑想に関する手紙』より)

うぉ~。奉仕を行う、ということは、こういうことだそうだ。
最善を尽くして、結果には執着しない。
結果に執着しようもないほどに最善を尽くす、、ということなのだろう。

「すべてを出し切ったのだから、順位は気にしない、、、」
とオリンピック代表アスリートが言っていたね。なんか、それに共通するところもあるような気がする。

喜ぶ顔が見たい、、、から、するのであれば、それは少なくても秘教でいう「奉仕」ではないのであろう。






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by phytobalance | 2016-08-14 20:58 | アリス・ベイリー・AB