人気ブログランキング | 話題のタグを見る

フィトバランス phytobalance

phytob.exblog.jp
ブログトップ

魂の光 第一の書 スートラ17~22


今回は、なんとサマーディ!について学んだ。

サマーディとは、「三昧」と日本語に訳される、瞑想における深みの境地の状態のことを指す。

わぁ、いきなり、サマーディ~♪♪。

でも、まだでしょう。やることいっぱいあるでしょ、その前に・・・
先に、サマーディを見せて、やる気にさせる戦略か。
それともその逆か。


前回までの話。ビジュアルに復習。数字はスートラ#。

魂の光 第一の書 スートラ17~22_f0053026_07521971.jpg


今回は、スートラ17~22。
以下、スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。


17 対象の意識はその四つの性質への集中によって達成される -調査を通して形態への集中、識別ある寛容を通して特質(つまりグナ)への集中、インスピレーション(つまり私服)を通して目的への集中、同一化を通して魂への集中である。
(サムプラジュニータ・サマーディ【区別ある三昧】〔有想三昧〕には、論証性〔尋〕、反射〔伺〕、歓喜〔楽〕および純粋な我-性〔我想〕が伴う。)

どちらのバージョンもわかりにくい。

『魂の光』がここで言う「集中」は、サマーディを指す。

ここでは、瞑想(サマーディ)の4つの段階があることを説明している。
実は、その上には上があるのだが、ここでは、区別する瞑想とか、分析する瞑想とか言われる、仏教用語では「有想三昧」と言われる最初のステップ(サムプラジュニータ・サマーディ)の4段階を指している。

『魂の光』では、対象の意識、対象についての瞑想、という言い方をしている。つまり、自分と対象物があるのだから、区別ある瞑想、ということになる。
その4段階とは、以下の通り。

1. ヴィルカ・サマーディ:形態への集中、論証性(尋)、目で確認できる物の分析
2. ヴィチャーラ・サマーディ:特質への集中、反射(伺)、感覚や心の分析
3. アーナンダ・サマーディ:目的への集中、歓喜(楽)、心の状態と自分自身の違いの分析
4. アスミタ・サマーディ:魂への集中、我‐性(我想)、自分と自我意識の分析

各ステップにおいて、何を分析しているか、という説明はわかりやすい。これは、『やさしく学ぶYOGA哲学~ヨーガスートラ』(向井田みお著)から。確かにやさしく学べそう。

ここで、神尾仮説登場。
このサムプラジュニータ・サマーディの4段階は、メンタル亜層下位4層ではないか、ということ。

秘教を学んでいるのだからね。常に界層構造と対応して考えねば。


18 思考の一点集中によって外的な活動が静まったとき、さらなるサマーディの段階に到達する。この段階においてチッタは主観的な印象付けにだけ反応する。
(心の作用の完全停止が確固不抜におさめられることによって、後に残るのは印象〔サンスカーラ、行〕のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ、区別なき三昧】〔無想三昧〕である。)

先の4段階を経て、サムプラジュニータ・サマーディに到達することで、

「外部からの印象付けは感覚を経由してマインドに到達する。」(p52)

つまり、物事を「認識」しなくてよく、感覚として入ってくる、解る、というふうになる。という理解でいいかな。

「知覚したものへの反応をマインドに伝達しなくなったとき、二つのことが起こる。

a. 肉体脳が静まる。
b. マインド・スタッフつまりメンタル体、チッタが様々な変異をお紺合わなくなり、肉体脳と同じように静まる。」(p52)

知覚したものへの「反応」はいらないのである。

そして、
「彼にはまだそれが何であるかはわからないが、新しい知識の領域に気づくようになる。」(p52)

この次の知識の領域を、アサムプラジュニャータ・サマーディ、区別なき三昧、無想三昧、と言う。


19 ここで描写したサマーディは現象界の境界超えるものではなく、神々や具体的世界にかかわる人々を超えるものではない。
(単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然〔自性〕に没入した者には、再生がある。)

二つのバージョン、全く関連性が見えない!!

『魂の光』の解釈の意味は、この状態において、メンタル体の変異を鎮め、魂、魂のヴィジョンの範囲、魂の知識を初めて認識したが、まだ、三界に閉じ込められている、ということ。

『インテグラル・ヨーガ』の解釈では、いくらか自然を統御できるようになって、天界にいてのある主の愉楽を享受できても、その後、戻って、修行を続けなければならない、という意味らしい。

と、説明されると、両者、似たようなことを言っていることがわかる。

この程度のレベルは、まだまだ「合一」ではない!!


20 エネルギー、記憶、瞑想、正しい知覚につながる信念を通して、サマーディを成し遂げ、純粋な霊の識別に達するヨギたちもいる。
(その他の者〔ヨーギーたち〕は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。)

ここでは、まだ三界の閉じ込められていながら魂の知識を認識したヨギ(弟子)ではなく、次の段階にいる、
「低位性質全体の統御と編成を完了」(p55)
した弟子のことを述べている。

彼らは、
「法則についての知識を通してー変性され純化されたすべてのセンターを使って働く。彼らは次の能力によって真のサマーティ、つまり、オカルト的な抽出の状態に達する方法を知っている。つまり、ヘッドの千枚の蓮華にエネルギーを引き上げ、・・・ついにはすべてのエネルギーを・・・魂の蓮華の中心に集めて焦点化する能力である。」(p55-56)

この能力は、次の5つの段階によって生み出される。

1. 信念:弟子はまず、魂の認識に達し、次に純粋な霊、絶対者である存在の父に接触する。この歩みには、常にまず、「信念」が必要である、とのこと。
2. エネルギー:正しい活動とフォースの正しい仕様によって目標に近づき、理論は事実になる。
3. 記憶:リアリティーを隠してきたあらゆる形態のエゴの忘却が、真に理解できる状態、つまり、魂が知覚したものを正しく感知する能力につながる。
4. 瞑想:魂が見て脳が感知したもの、魂から発っせられたものは、瞑想によって人生の布に織り込まれなければならない。
5. 正しい知覚:魂の経験、霊つまり父の様相についての知識がアデプトや大師の脳の中身の一部になり始める。


21 強烈に活発な意思を持つ人々はこの状態(霊的意識)速やかに達成する。
(強い熱情をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】は非常にすみやかに来る。

「これは当然である。」(p58)

そうだね。

『インテグラル・ヨーガ』には、このスートラの解説はない。「当然」なのだからだね。


22 意思を行使する人々も様々であり、その行使が強烈な場合と、適度な場合と、軽い場合がある。さらに、真の霊的意識の達成にはもう一つの道がある。
(成功のために要数時間はさらにまた、その修練が温和であるか、注意であるか、非常に熱烈であるかによって、異なる。)

『魂の光』では、
人間が霊的生命の知識と解放に到達する道が二つあるという。

ひとつは、
「意思を用いて自己と非自己を識別し、純粋な霊に到達する方法である。」(p59)
これは、パタンジャリが教えるヨガの道であり、マインドを発達させ、制御するという課題を持つアーリア人種にとっての道である。

もうひとつは、
「強烈な崇拝と完全な献身を通して、熱誠家は霊のリアリティーについての知識に達する。これは多くの人にとって最も抵抗の少ない道である。」(p59)

後者は、アトランティス人種にとっての方法だったのだが、現在の私たちの多くにとっても、歩みやすい道だという。
なぜなら、私たちはまだ、アトランティス人種の課題であるアストラルの制御を完全に為しえてないから。


このスートラは、この前者の方法を用いている人々の3つのグループに分けられる、と言っている。

*非常に強烈に意思を用いて、極めて速やかに結果を達成する者。しかし、アンバランスな発達、性質のハート面の否定、後に修正しなければならない破壊的な行動などの危険が伴う。

*それほど休息には進歩しない、中庸の道の典型である熱誠家たち。着実かつ穏やかに前進し、いかなる種類の行き過ぎもゆるさないため「識別の達人」と呼ばれる。現在の周期においてすすめられるのはこの方法である。

*沈着冷静で粘り強い意志を持ち、着実に進み、脇道に逃れることなく前進し、やがてゴールに到達する穏やかな魂たち。容易には動揺しない根気強さを持つが、進歩は遅い。

最初の人々は、野うさぎ、最後にあげた人々は亀。

だけれども、これらのグループの大多数の人々が、いずれ注意深く相反する対をなすもののバランスをとり、偏った発達を均等にし、それまでの偏った努力を修正し、「一定の歩調で歩み」始める、とのこと。
速度を修正するもの、進歩を早めなければならない人々がでてくる、と言う。

そして、「野うさぎと亀はゴールで出会うのである。」(p61)
のだそうだ。


ウサギでも、カメでも、ゴール全然見えん・・・





by phytobalance | 2018-07-05 07:56 | AB 魂の光