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魂の光 第二の書 スートラ19~26

前回は、カルマの話のあと、物質の特質であるグナ、さらに、そのグナの活動こそが「苦痛」を生み出すこと、そして、知覚者と知覚されるものについての話と続いた。

引き続き、グナと知覚する者と知覚されるものの話が続く。

では、スートラ見てみましょ。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


19 グナ(つまり、物質の特質)の区分は四種類である。つまり、特異的なもの、特異的ではないもの、触れることのできないものである。
(グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。)

グナとは、すべての物質に備わる3つの特質である。と前回説明されたのだけど、ここでは、さらに、それらは「想念質料」だという。
そう、秘教では、物質も想念形態のひとつなんでね。

1 サットヴァ質料 リズム、平衡、調和
2 ラジャス質料 機動性、活動性
3 タマス質料 惰性、安定性

で、この3つのグナがさらに四つ分けられると言うのだ。

サンスクリット語、伊藤武著『図説ヨーガスートラ』『インテグラルヨーガ』による四つの区分の名称も書いてみた。

魂の光 第二の書 スートラ19~26_f0053026_17215077.jpg

「・・ここで形態の大いなるイリュージョンについて述べている。真の人間は長い人生周期を通してそれと同一化することで悲しみや苦しみを味わうが、そこから彼は最終的には解放されなければならない。」(p166)

では、その解放されなければならないイリュージョンをもたらす形態特質の4つの区分のそれぞれの性質を見てみましょ。

魂の光 第二の書 スートラ19~26_f0053026_17380448.jpg


20 見る者は純粋な知識(グノーシス)である。純粋ではあるが、提示されたアイディアをマインドという媒体を通して見る。
(見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現われ方をする。)

「このスートラはこの書の鍵になる詩句の一つであり、ヨガの科学全体の手掛かりを与えるものである。」(p170)

とのことだ。

このスートラに出てくる言葉は、次のように説明されている。

1 見る者:結果の世界、つまり、イリュージョンという大いなるマーヤを眺め考察する者のこと。

2 提示されたアイディア:三界において観る者の前を通過するすべての形態。何らかの種類の具体化された想念。想念形態。

「提示されたアイディア」は、5種類あるという。
a 日常の物質界において蝕知できる客観的な形態
b 気分、感情、欲求
c メンタル界に群がる極めて多様な想念形態
(これらを通して、見る者は非自己についての知識を得る)
d 自分で創造できるようになる想念形態
(マインドという道具を統御することを学び終え、イリュージョンと霊の世界を構成するリアリティーとを識別できるようになった後に)
e 霊的生命の世界、霊的知識の領域、真の意味での神の王国によって提示されるアイディア

そう、これらは、aから、物質界、アストラル界、メンタル界、ブッディ界、アートマ界に対応する!

「オカルティストが行うべきことは、何らかの原因がもたらす結果でしかない形態を扱うことではなく、あらゆる形態の背後にあるフォースに働きかけることである。この努力の方法は段階的にしか発達しない。」(p171)

3 マインド:「提示されたアイディア」、つまり、想念形態を知覚するために見える者が用いる道具。

マインドの3つの目的
a マインドを通して、見る者が原因の領域、霊的な領域を見る
b マインドを使って、原因の世界を知性の観点から解釈できるようにする
c マインドを正しく用いることによって、見る者が魂が見て知ったものを肉体脳に伝達できるようにする


うん。だんだんわかってきたね。
今の私たちに見えるもの、知るものは全て、マインドという道具を使って知覚しているので、その本質が見えない。つまり、イリュージョン。そのものを生み出している原因、背後にあるものを見る、とは、究極、その純粋意識そのものにならないとならない。何かを見る、知る、のではなく、そのものになる。だから、以前から「主観的」と言う言葉を使っているのだ。何かを見ている間は、「客観」である。

そんなところか。


21 万物は魂のために存在する。
(見られるものは、見る者のためにのみ存在する。)

ここでいう魂は、「至高なる存在」の魂と指しているという。そして、人間の魂は、その一部なのだという。つまり、万物は、至高なる存在の魂のために存在する、と読む。

「人間の小さな世界、小さな環境と接触は、彼に経験をもたらし、最終的な解放をひき起こすために存在する。彼はそれらの顕現の原因であり、それらは彼自身の思考力が生み出した結果である。しかし、彼がその一部であるより大きな全体が彼の周囲に、そして彼を通して見られるのである。」(p173)

分かりにくい文章だが、解らなくもない。大宇宙、小宇宙だからね。

前回のスートラ17で、DK大師が、「最高要素が、自分であるという意識をしっかりと保っておいてほしい」と言っていたこととかぶる。

私たちは、観る者(最高要素)であり、「至高なる存在」の魂でもある、、。
今はそう思えないかもしれないけど。


22 ヨガ(つまり合一)を達成した人間にとって客観的な宇宙は存在しない。しかし、いまだ自由ではない人々にとっては存在する。
(それ【=見られるもの】は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在しつづけている。)

でてきましたね。
到達すれば(どこに?^^;)、客観的なものはなく、主観になる。
でも、到達してなければ(自由でなければ)、世界は、宇宙は、客観的な対象なのである。

「私たちの観察するものはすべて思考質料の変異であり、神であれ人であれ、思考者が自分自身の世界を創造するという認識を前提にしている。」(p174)

創造する、ということは、客観的対象物を創造しているのだ。


「ヨガの科学によって、マインドを支配し、メンタル質料つまり想念物質を完全に支配する力を得たとき、大部分の人を三界の囚われの身にしている形態の支配からその人は解放される。」(p174)

これを目指す。

「ヨガの科学の目的は、人間にこの解放の方法を明らかにし、どのようにすれば自分を自由にできるかを示すことである。」(p175)

だいたい分かってきましたね~。

で、第二の書では、主観を得るためのリアリティーとの合一、イリュージョンの消散の方法論として、八つの方法が示されているのだが、それが「八支則」。


23 魂がマインドとつながり、次にマインドが知覚するものとつながることで、知覚されるものの性質と知覚者の性質についての理解が生じる。
(所有する者【プルシャ】と所有されるもの【プラクリティ】の結合が、それら両者が各自の本性と力を把握する原因である。)

スートラ20で示された通り、魂(見る者)が、マインドという道具を使って、知覚するもの(提示されたアイディア)を知覚する、のだが、これらを識別し、関連している、「つながり」がある、ということを認識することで、見る者と知覚されるものの性質を理解できる、と言っているのである。

これは、私たちが最初に養わなければならない「識別力」だという。

なぜか。
それは、何度も出てきたように、私たちは、自分を、道具であるマインドや、知覚するもの(提示されたアイディア、イリュージョン)と同一化しているからである。

同一化しているのではなく、それぞれが別なものであることを知り、その性質を認識しなくてはならない。

識別は最終的に次の三つにつながるという。

1 霊と物質の違いを理解する
2 父なる霊と母なる物質の合一によって生み出された子である魂の性質を理解する
3 魂が自分自身を形態からなる現象界とではなく、霊的様相と同一化し始めることにつながる発達。


24 このつながりを引き起こす原因は無知つまりアヴィディアである。これは克服されなければならない。
(この結合の原因は、無知〔無明〕である。)

「魂の真の性質に無知であること、自分自身の性質と能力を発見したいという衝動があることが、魂が様々な知覚器官や、それら知覚器官が知覚して魂の意識に内にもたらすものと同一化する原因である。」(p178)

昔、どこかで読んだことがある。
その時は「魂」ではなく、「神」が主語だったのだけど、「神」は、自分を知るために人々を使わし、様々な経験をさせるのだと。

それは、ここでいう「衝動」であり、避けがたいことなのだが、いつしか、自分を知るための道具や対象と同一化してしまっている。
本来の自分を忘れた「無知」がそうさせる、と言っているのだろう。

「現象界との同一化と外へと向かう知覚器官の使用は、真の人間が無知の殿堂と呼ばれるところで過ごす期間に行われるものである。」(p178)


25 知覚されたものとのつながりを絶つことによって無知に終止符が打たれる時、これが大いなる解放である。
(この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。)

魂(見る者)は、イリュージョン(マーヤ)の中に沈みこんでいる、と言われる。
自分自身の想念形態や想念が作り出したものに閉じ込められ、三界にあるそれらのものの中にも閉じ込められ、自分自身を現象界の一部と見なしているのだそうだ。

「経験と識別を通して、自分自身とそれらの形態を区別できるようになったとき、解放過程が進行し、大いなる放棄でそれはやがて頂点に達し、そのとき完全に三界から解放される。」(p178)


26 識別を完全に維持することによって、束縛の状態は克服される。
(途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。)

識別とは、自然の本質的な二重性についての認識に基づくものである、と言う。
なぜなら、自然は、二極つまり霊と物質の合一によって生まれる結果だからである。

まず、識別を培い、二重性の前提を基礎とし、その理論を実際に試していく努力をすべきである、とのこと。

熱誠家は日々、形態と生命を、低位顕現の総和と、低位顕現の原因である真の自己を識別するよう努め、次第に、すべてに対して、自己と非自己を識別し、形態の世界の出来事ではなく、霊の出来事として捉えることになれてくると言う。

この区別は、最初は理論的であるが、次に知的になり、後により現実的なものになり、最終的には、全く新しい次元へと入り、形態を存在へと至らしめる主観的なリアリティーも知るようになる。




by phytobalance | 2018-10-15 17:39 | AB 魂の光