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魂の光 第三の書 スートラ26 ~36

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前回より、ある対象にサンヤマすることによって、得られる能力/知識に関してのスートラに入った。

今回は、『図説・ヨーガスートラ』でいう、宇宙に関する知識、と、身体に関する知識とくくられているスートラを見る。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』〔本文では『図説』〕)




26 太陽へのしっかりと一点集中した瞑想によって、7つの世界の意識(つまり知識)が生まれる。
(太陽にサンヤマをほどこすことによって、太陽系全体をしることができる。)
(宇宙に関する知識は、太陽への総制(サンヤマ)から[生ずる]。)

『図説』では、この章のスートラは、当時の職能カーストと結びついた秘儀や伝承のようにも思われるとしている。このスートラと後に続く2つのスートラは天文学者たちが実践したであろう神秘的な技術という。

太陽へのサンヤマは、太陽をひたすら凝視し、心のスクリーンに太陽の真の姿を映し出す。普通の人が真似れば目がつぶれるのだが、瞑想者のすぐれた視力では太陽の圧倒的な光輝に屈することはないそうだ。

パタンジャリと同時代、5世紀にすでにインドでは、地動説が説かれていたという。このような瞑想を通した直観から得た知識であろうとのこと。

『魂の光』は、丁寧に、このスートラをさらに現代の言葉に直している。

「私たちの太陽系が生じた原因についてたえずしっかりと瞑想することによって、七つの存在状態についての認識が生まれる。」(p295)

七つの意識状態とは、七つの偉大なる生命存在を包む七つの界層に私たちの太陽系を分ける現代オカルティズムの分け方に対応している。

1 物質界:地上世界、肉体意識
2 アストラル界:情緒の世界、カーマつまり欲求意識
3 メンタル界:マインドと魂の世界、マインド意識
4 ブッディ界:キリストの世界、直観つまりキリスト意識、グループ意識
5 アートマ界:霊的世界、惑星意識、第三様相の世界
6 モナド界:神の世界、神意識、第二様相の世界
7 ロゴス界:放射する原因の世界、絶対意識、第一様相の世界

「このしっかりと築かれた構造全体は(世界の)卵の中心にあって拡大する。この卵は、それに浮かぶ蛍に似た、第一原因の微小な断片である。」(p299)

と、古代の注釈者は述べているということだが、これは、

「私たちの太陽系は一つの宇宙原子にすぎず、それ自身よりも偉大な球全体の一部でしかない」(p299)

という意味であり、

太陽に完全に一点集中して瞑想することで、それらを含めた完全な知識を得ることができる、とのこと。

言い換えると、
「各人のハートの中にある太陽についての知識とその太陽から発せられる光によって、人は道の扉をみつけたときに、私たちの太陽系のハートにある太陽と関係するようになり、いずれは宇宙の七つの道へと人間を導く扉を発見するということである。」(p299-300)


27 月への一点集中した瞑想によって、月の作用を受けるあらゆる形態に関する知識が生まれる。
(月にサンヤマを施すことによって、星の配置を知ることができる。)
(月に[総制(サンヤマ)を為すことにより、星宿(ナクシャトラ)などの]星の配列の知識が[生じる]。)

『図説』では、シンプルに、月にサンヤマをなすことにより、星宿などの星の配列の知識が生じる、としている。

古代インドでは、月を基準にした暦法を使っているが、月は27.3日で恒星上を一周することから、月の軌道を明るい恒星や星座を目印に27区分して、その一区分を星宿と呼んでいる。星の配置と関係するムーンホロスコープである。

『魂の光』では、スートラの言葉の通りの解釈と、さらに、

「月を瞑想できるものに、アストラル界の知識がもたらされる」という解釈がある、としている。

両解釈を合わせることで、

「形態の母(月)に一点集中することで、形態の性質と目的が熱誠家に明らかになる」(p301)

月は物質の象徴であり、体、つまり、媒体、そして、人間の努力が行われる三界における魂の家に関係している。

「月の形態についての知識は、肉体、欲求体つまりアストラル体、そしてメンタル的な鞘についての理解をもたらす。」(p301)


28 北極星に集中することによって、惑星や星々の軌道についての知識を得ることができる。
(北極星にサンヤマを施すことによって、星の運行を知ることができる。)
(北極星に[総制(サンヤマ)を為すことによって]、それ(星)の運行の知識が[生じる]。)

「宇宙の中心である太陽にサンヤマすることで宇宙に関する知識が、星座(星宿)の主である月にサンヤマすることで星の配置に関する知識が得られるように、北極星にサンヤマすることであらゆる天体の運行に関する知識がもたらされる」(p314) と『図説』はいう。

『魂の光』では、このスートラはあらゆる占星学的な研究の基礎になるというので、以下、完コピ。

1 私たちの太陽系と他の六つの星座との関係。これらの星座は(私たちの太陽系とともに)、私たちの太陽系の七つの偉大な霊的影響力がその繁栄であり媒介である七つのフォース・センターを形成している。

2 天における太陽の運行路と太陽が見かけ上通過する横道帯の十二宮。したがって、このスートラは、私たちのあらゆる創造過程の基礎になる七つと十二の目的を明らかにする鍵であることがわかるであろう。

3 小宇宙としての人間との関係におけるヘラクレスの十二の役務の意味。

4 私たちの惑星の目的。これは、アデプトが次の三重性を理解することによって得られる。

a 北極星
b 私たちの地球
c 大熊座

鍵を持つ者には他の意味も読みとれるが、これらの簡潔な言葉の持つ深い秘教的な意味を示すには、これで十分であろう。

(p302)

十分ではないのだが・・・。


29 太陽叢と呼ばれるセンターに注目を集中させることによって、肉体の状態に関する完全な知識が得られる。
(臍の神経叢にサンヤマを施すことによって、身体全体のこと、その構造を知ることができる。)
(身体の配列に関する知識は、臍チャクラに[総制(サンヤマ)]することによって」。

ここからは、身体に関する知識。

『図説』のスートラにある「身体の配列」とは、アーユルヴェーダの大黒柱となるトリドーシャ(ヴァータ、ピッタ、カパ)と七(サプタ)ダートゥ(①乳糜、②血液、③肉、④脂肪、⑤骨、⑥髄、⑦精液)の理論。

まだ、脈診が用いられていなかった頃は、臍診(へそみ)をやっていたとのこと。臍はすべての(プラーナの)脈管の起点ゆえ、全身の症状があらわれるから。

このスートラが、体内の神秘的センターを“チャクラ”と称したおそらく最古の例とのこと。

『魂の光』でも、太陽叢のセンターに瞑想することで肉体の状態に関する知識が得られる、としている。

その前に、何故、太陽叢なのかの説明が細かくされている。
抜粋すると、7つのセンターのうち、第五人種つまりアーリア人種に最も優勢なのは、

1 脊柱基底センター
2 太陽叢センター
3 ハート・センター
4 喉センター
5 ヘッド・センター

だという。そして、その中の太陽叢センターについて述べられているのは、以下の理由から。

1 胴体の中心に位置すること。それは中間原理に対応している。
2 アストラル性質、情緒、気分、欲求、感情の期間であり、したがってすべての中で最も活発であること。
3 あらゆる低位の動物的欲求を高位のものに変性するという大きな働きが進められるセンターであること。
4 動物魂が人間魂に同化吸収され、キリスト意識が芽生えること。

太陽叢に瞑想することで、
「自らの情緒体と、それが物質界で機能するためのフォース・センターについて理解したとき、(肉体的、エーテル的に)自分であるものすべてが欲求つまりカーマの結果であることが分かり、輪廻転生の車輪に束縛しているのが自らの欲求であることが分かる。」(p307)

「そのため、ヨギは基本的な識別の必要性を強調するのである。この識別によってリアリティとリアリティではないものを選択する能力が発達し、正しい価値観が培われる。その次が平静であり、そのそれが発達したとき、感覚知覚の生命に対する嫌悪感が生じる。」(p307)

「欲求が人生において果たしている役割を熱誠家が理解できたとき、また自らの低位性質における問題の大部分がアストラル体つまり情緒体から生じることを認識したとき、そして欲求エネルギーが辿るプロセスの専門的な側面を把握できたとき、太陽叢の機能を理解し、移行と変性と言う大きな二重の機能を開始できるようになる。彼は横隔膜よりも下にあるセンターのエネルギーを上にあるセンターに移行させなければならず、その過程においてそのエネルギーを変性し、変化させなければならない。」(p307)

変性の過程において覚えておくべきこと。

a 脊柱基底のエネルギーはヘッドに上げられなければならず、
b 仙骨センターのエネルギーは喉に上げられなければならず、
c 太陽叢のエネルギーはハートへと上げられなければならない。脾臓のエネルギーは肉体にだけ寛永していおり、それはすべてのセンターに分配される。


30 喉センターに注目を固定させることによって、飢えと渇きを止めることができる。
(喉のくぼみにサンヤマを施せば、飢えと渇きが止まる。)
(飢渇感の遮断は、喉の井(カンタ・クーパ)に[総制することによって]。)

『図説』の「喉の井に集中」とは、ソーマを体内で合成し、アムリア(甘露)として内分泌させる方法とのこと。ソーマとは、神々と見えるために用いた幻覚剤、または、父子の霊薬、甘露を指す。

この甘露は、おそらく健康をもたらす脳内物質を含んだ唾液であるとし、その結果、肉体のみならず、精神・霊魂に飢餓感は失せる、とのこと。

『魂の光』では、スートラ30と31がまとめて解説されているので、次にまとめて見てみる。


31 喉センターの下にある神経管に注目を固定させることによって、平衡が達成される。
(クールマ・ナーティ【喉の下方にある、亀の形をした精緻な管】にサンヤマを施すことによって、瞑想の坐位の不動性が達成される。)
(亀脈管に[総制を為すことによって]、堅実性(スタイリヤ)が[生じる]。)

『図説』では、亀脈管がよくわからない、とした上で、前スートラが喉、次のスートラが頭頂なので、亀脈管は、喉センターの下ではなく、上にあるものではないか、と問いかける。

「スシュルタ本集」という医学文系は、その位置に「四本の道の交差点/十字路」を意味するシュリンガータというマルマ(一種のツボ)があり、口蓋の上にあって、脳から舌と鼻と眼と耳の四つの感覚器官に伸びる脈管の出発点、となっているそうだ。

『魂の光』では、スートラ30と31の真の意義は、太陽叢で起こる変性過程と移行を理解することによって分かるという。

スートラ30にある飢えと渇きは、それぞれ、積極的・男性的・貪欲、消極的・女性的・受容的であり、性的衝動の根底にある二つの衝動を象徴している。これらの衝動が支配され統御されると関係する器官の背後にあるセンターのエネルギーが喉に持ち上げられ、飢えと渇きは秘教的な意味で止まる。

「この二つの言葉は、ヨギがバランスをとらなければならない大きな相反する対をなすものの物質界での対応であり、太陽叢がその最高の機能を果たしているときにバランスがとれる」(p310)

「アストラル界つまり欲求界において、熱誠家のアストラル体内で、このバランスをとる過程を完成させなければならない。これは大きな戦場・・・」(p310)
である。

「ある程度の平衡状態を達成したのち、熱誠家はそのバランスをとる過程を完成させるようになり、しっかりと不動のままに、相反する対をなすものの平行を揺るぎなく保つ力を得る。」(p310)


32 頭部内の光を焦点化することによって、自己統御を達成した方々を見て、接触することができる。この能力は一点集中した瞑想を通して発達する。
(脳天の光【サハスラーラ・チャクラ】にサンヤマをなすことによって、神人(シッダ)たちを見ることができる。)
(成就者(シッダ)を観ること(能力)は、頭頂の光(ムールダ・ジョーティス)に[総制することによって]。)

『図説』によると「頭頂の光」は、サハスラーラ・チャクラ、いわゆる 第7番目のクラウンチャクラの中心点に心臓から発した光が集まってくることによるものとしている。ここに集中して瞑想することによって、イーシュヴァラを見るだけでなく、会話ができる、とも言われているらしい。

『魂の光』では、スートラ25にも出てきた「頭部内の光」に気づき、意のままに活用できるようになると、外側の知識領域のみならず、内側の神の聖者たちの領域に向けることができるようになり、それを介して、大師やイニシエートと目覚めている状態で接触することができ、さらに、それを肉体脳で感知できるようになる、という表現である。

また、この光は、他の人々のための道を照らすものになるという。


33 直感の生き生きした光の中ではすべてを知ることができる。
(また、【純粋な生活を通じて】自然に発露する知(プラティパー)の中で、すべての力はおのずから現れる。)
(あるいは、直感の光(プラーティパ)から一切が[知れる]。)

『図説』のプラーティパ(直観の光)は、前スートラの流れからすると、「頭頂の光」を発展させたものとして経験されるかもしれない、としている。

そして、「一切が知れる」とは、すべてのことを直観的に見霽す(みはるかす)叡智が得られる、ということらしい。

『魂の光』では、頭部内の光に関連した知識の三つの側面として以下をあげている。

1 理論的な知識:通常の人間が持つ知識
2 識別的な知識:相反する対をなすものが明らかになると、どちらの道を進むのかという問題が起きるが、平静さと無執着を持つことで、その問題は消え去る。
3 直観の光:イルミネーションをもたらすう知識。相反する対をなすものを克服することによって得られる。

直観の閃きは、最初は鮮明に閃き、一瞬で消えてしまう。しかし、瞑想の習慣が培われ、マインドの安定が達成されることで、徐々に途切れない流れとして輝き、ついに完全な日の光に包まれることになる。

「この霊的な光を用いて見て接触したものを物質界にいる人間は、脳を通して感知し、理解し、実際に活用しなければならない。ここに合理的なマインドが果たす役割がある。その役割とは、真の霊的人間がそれ自身の界層で知り、観て、理解したものを解釈し、系統立てて、脳に伝えることである。」(p314-315)


34 マインド意識についての理解は、ハート・センターへの一点集中した瞑想によって生まれる。
(心臓にサンヤマをなすならば、心〔チッタ〕を知ることができる。)
(心(チッタ)にかんする知識は、心臓(フリダヤ)に[総制することによって]。)

「III-29 に始まる身体の中枢の列挙は、-臍チャクラ→喉の井→亀脈管→頭頂の光/直観の光→心臓 と進む。」(p324)

『図説』は解説する。心臓への集中は、個々の安定と浄化のために書記の段階から行われている(I-36)が、ここでのそれはずっと改良・洗練されたもになっているのだそうだ。

『魂の光』では、まず、人と動物との違いは、人間には知性と合理的な推論するマインドがあること、という説明から始まる。そして、これが、人々に個人性の感覚、分離したアイデンティティの感覚を与え、かれらをエゴにしている、という。

頭部内の光に集中することによって、霊(アートマ)がそこに輝いているため、霊的世界とその中で働く純粋な霊たちについての知識を得ることができるように、ハートへの集中した瞑想を行うことによって、意識的な知性の原理である第二様相の知識を得ることができる、とのこと。


35 (相反する対をなすものに関する)経験は、魂が個我とプルシャ(霊)を識別できないことから起こる。客観的な形態は霊的人間が使用(経験)するために存在している。このことを瞑想することによって、霊的性質に関する直感知覚が起こる。
(知性〔サットヴァ、覚〕とプルシャ【あるいはアートマン】とはまったく別ものであり、知性がプルシャのために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。これを峻別しないところに経験のすべてがあるのであって、この区別にサンヤマを行うことによって、プルシャの知があらわれる。)
(絶対に同化することなきサットワとプルシャを、他者を目的にするもの(プラクリティ)[のはたらき]ゆえに混同してしまう意識作用が「経験」。自らのためにのみ在るもの(プルシャ)への総制から、プルシャの知識が[生じる]。)

『図説』にある「サットワ」とは、存在、真理、本性などの意味を持つ言葉だそうだが、ここでは、「心の最も微細な相、ブッディの本性をさす。」(p326)

「プルシャは、ほんらいプルシャによって「見られるもの」(経験されるもの)であるその心と混合する。そうして生まれる意識作用が「経験」だ。心の機能や感覚から、あらゆる思念・理想が経験される。
心は、それ自身のためではなく、「他のもの」すなわちプルシャのためにある。対し、プルシャは「自らのためにのみ在る」。」(p327)

と解釈するのだそうだ。

面白い解釈が続く。『図説』のI-18、24では、プルシャそのものは瞑想にならない、と述べられているのだが、II-41では、浄化を極めることで、「プルシャを観る適合性が生ずる」と解説されている。だが、

「サンヤマから生じた最強ツール、プラジューニャを通して、識別力生じた一切を見霽す(みはるかす)光の地、プラーティバを照射することによって、それが可能になる」(p328)という。

『魂の光』では、このスートラは、この段階での魂の経験に対する注釈のようなもので、以下の教訓を残している、と解釈している。

1 相反する対をなすものに直面したとき、私たちは自らの内に苦痛や快楽をひき起こすマインドの活動つまり姿勢を選択することが多いが、それは、私たちが低位と高位の性質、個我と各人の内に見られる神聖な霊を識別できないためである。私たちは霊とではなく形態様相を同一化している。

2 形態の目的は単に、自己が世界と接触し、父の王国のすべての部分での完全な認識を発達させ、完全に意識する神の子を実演できるようにすることである。形態を通して経験を得て、意識は目覚め、能力は発達し、力が開花するのである。

3 この事実を知的に把握し、それについて内的に瞑想することで、霊的性質との一体性の認識、形態とは違うという感覚が発達する。


36 この経験と瞑想の結果、高位の聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚が発達し、直感知識が生じる。
(この知(プラティパー)より、任意の直観による超自然的聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生ずる。)
(かくて(プルシャに対する総制から)、直観的な聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生じる。)

II-54 「制感(プラティヤーハーラ)は、本来の対象と離された諸感覚が、あたかも心そのもののようになること」は、感覚器官は、粗大な物質レベルだけではなく、微細な心フィールドでも作動する、とあるが、これは、識別する力も、五感を通して得られる情報に頼っているようだ、と『図説』は言う。

「直観的な五感」とは、これとは異なり、内を向いた五感は、ついにプルシャ自身をとらえ、直観的な(プラーティバ)な光の知が「観る者」(プルシャ)をフォーカスし、かれに、プルシャ自身が「見られるもの」を観る(経験する)ときに使う、とのこと。

『魂の光』は、むしろ、分かりやすい解釈。

「瞑想によって熱誠家はより精妙な領域にある五感の対応物に気づくようになり、それらを目覚めさせ、意識的に活用することを通して、内界でも物質界と同じように自由に機能できるようになる。そのとき彼は、精妙な領域でも知的に奉仕し、偉大なる進化計画に協力できるようになる。」(p319)

五感それぞれは七つの顕現界層のいずれかに関係していて、すべての界層に対応するものがある、とのことで、左下のような感じで表されていた。
右下の表は、感覚をもとに分類したもの。各感覚にある数字は、左下の表の界層にある数字と同じ。

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# by phytobalance | 2019-01-10 22:56 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第三の書 スートラ18 ~25

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ヨーガスートラ第三の書。

ヨガの八つの方法、八支則も終わり(説明が)、それによって獲得できる(超)能力の話に入ってきた。

大前提は、ヨガの八支則を行って、マスターしていること。

では、スートラ見てみましょう。
今回も『図説ヨーガ・スートラ』とともに。
『インテグラル・ヨーガ』は、第三の書では解説がほとんどない。けれど、スートラは直訳に近いのかな、、と勝手に思って引き続き併記する。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』〔本文では『図説』〕)


18 想念イメージを見る能力を獲得した時、過去生の知識を手に入れることができるようになる。
(サンヤマによって自らの心的印象〔サンスカーラ〕を直観することにより、前世についての知識が得られる。)
([前生で生かされた]記憶因子(サンスカーラ)の直感から、前生の知識が[生ず]。)


「マインドを支配下に置いた人々だけが・・・この知識を回復することができる。」(p274)

マインドを統御できるのは真の霊的人間、つまり、魂とのつながり回復できた者だけが、この能力を得られると言っている。

その後、このような注意が。

「メンタル的ではない情緒的な人々が、自分がかつて誰であったかを知っていると主張したり、友人たちの過去生について語ったりするとき、・・・彼らはアカーシャの記録を読んでいるのであるが、メンタル的な統御や装備が十分ではないため、自分の見たものを識別することもその真偽を正確に確かめることもできない。」(p274)

さらに、

「過去生に関する主張の大部分が真実ではない・・・それらは活発な想像力の結果であり、アカーシャのフィルムを一瞬見えるようにするアストラル光の閃きが自分に関係する事柄を明らかにしたと憶測しているに過ぎない・・・」(p276)

『図説』でも、視点は異なるが、注意事項が書かれている。

過去・現在・未来を一貫する実体、意識作用の胚を宿した種子にサンヤマして、過去や前生に関する知を得る。それは、無意識のより深いサンスカーラに純粋客観の光を当て、クリアに理解し、最終的にはそれを除去するためであるのだが、

「いわゆるスピな人には、己自身についての知強いを増大させるために、無意識に前世を探し求める傾向がある。それは、これらの過去の記憶が自己確立の一部である、という考えを導き、結果、エゴと無明を増大させることになりやすい。」(p295)


19 集中した瞑想を通して、他の人々のマインドの中にある想念イメージが明らかになる。
(他人の身体の区別的特徴にサンヤマを施すことによって、その人の想念を知ることができる。)
(想念(プラティヤヤ)の[直感力(サンヤマ)から]他人の心の知識が[生ず]。)

『図説』では、三昧に至ったヨーギンは、自身の心の鏡を見ており、他者の語る思考プロセスや、目や耳や他の感覚を通して得られるデータの情報は、その鏡に投影され、その情報を細かく観察すれば、そこに映るデータのソース、つまり、他者の心の性質を直感することができる。と、解説する。

『魂の光』では、
「ヨガの八つの方法の結果として・・・目に見えるものを生み出す原因を知覚する。」(p277)

つまり、これまでの解釈の通り、形態の背後にある原因から説明するのである。そして、その能力は、進化の諸計画を知的に遂行するためにだけ許される、、という。

そして、
「この能力はテレパシーと似ているが、・・・テレパシーの場合、マインドを他の人のマインドに同調させて、それらを連結させることが必要である・・・ここで述べられている・・能力は、意志の行使と特定のフォースの操作という性質がより強く、・・・調査の対象になる人と波長を合わせる場合もあれば、そうしない場合もある。強烈な瞑想と意志力の行使によって、想念イメージが明らかになるのである。」(p277-278)

「この能力の使用には危険が伴うため、訓練を積んだ弟子たちだけに許される。」(p278)


20 しかしながら、これらの想念の対象は知覚者には明らかではないため、彼が見るのは想念だけであってその対象ではない。彼の瞑想から有形のものは除去されているのである。
(だがそれは、その人の心の中でその想念を支えているもの【たとえばその思いの背後にある動機等】にまでは及ばない。それはそのサンヤマの対象とはならないからである。)
(しかし、それは、[他人の心にある想念を、その]原因となるものとともに[知る]ではない。それは[ヨーギンの統制の]対象にならないゆえに。)

『図説』では、

「統制(サンヤマ)の対象となるのは、他者の心の表層に浮かんだ想念だけであって、その思考の原動力である無意識のより深い記憶因子(サンスカーラ)まで洞察することはできない。」(p298)

としているが、『魂の光』とは、真逆の解釈のように思える。

「瞑想中に・・「気づいて」いるのは、想念資料、自分自身のチッタ(マインド・スタッフ)、他の人々のチッタだけである。
物質界に目に見える客観的な形態を出現させる原因になっているのは、このチッタに備わっている固有の活動である。」(p278)

つまり、両者、「想念」の位置づけが異なるように思える…?

「・・・想念がある特定のフォースの流れを始動させ・・これらのフォースの流れが徐々に思考者のアイディアと一致した形態を形成・・」(p278)

「集中した瞑想によって知覚されるのは、想念のフォースつまり想念の流れの性質である。・・・彼は原因を見て、そこから必然的に生じる結果を知るのである。」(p278-279)


21 形態と肉体の違いに集中した瞑想を行うことで、肉体を人間の目に見えるようにしている肉体の特性は打ち消され(撤去され)、ヨギは自分の姿を見えなくすることができる。
(自らの身体の形態にサンヤマを施すと、観察者の眼の光を遮ることによって知覚の力に観照し、身体を見えなくすることができる。)
(身体の形態(カーヤ・ルーパ)の総制(サンヤマ)から、[他者の]それを把える(見る)能力(シャクティ)が休止し、目と光が分離状態に[なり]、視界から消失。)

『図説』では、これを「透明人間になる術」と呼んでおり、性愛の秘儀を説いた「カーマ・スートラ」にも記されているという。

これは、対象を「見る能力」だけでなく、「見られる能力」がある、ことを前提としている。

「おのれの身体の形態 - 有部的な表現をすると、おのれの身体の様態にサンヤマすることにより、「見られる能力」というその特徴が消失、・・結果、おのれの身体は他者に見えなくなる。」(p301)

という難しい解釈である。根底には、サンキャ理論があるらしいが、理解できないので割愛する。

『魂の光』は、エーテル体と物質体との関係から説明している。まだ、分かりやすいかも・・・

「ヨギは集中と瞑想によって、意識の中心を真の霊的人間に置き、思考原理を統御する能力を獲得する。」(p279)

ということで、オカルトの法則があって、
「人は自らが考える通りのものになる」
「人は自ら考えたところにいる」
のだそうだ。

「訓練を積んだ見る者は意のままに自らの意識を物質界から撤退させて、メンタル界に置くことができる。彼は意のままに「光を遮断する」ことができ、そのとき可視性は打ち消され、(人間の目から見ると)彼の姿は消える。彼に触れることも、その音を聞くこともできなくなる。」(p279)

すべての現象の基礎は、

「物質はこの存在階層に魂が顕現するための媒体であり、魂はより高い螺旋状において霊が顕現するための媒体ある」(p281)

として、そして、

「魂が物質様相(目に見える客観的な形態)から撤退したとき、形態は見えなくなる。それは消滅し、一時的消散される。現在のところ、これは見る者が自らの意識を魂に集中させ、エーテル体を濃密な肉体から撤去することによって十分達成される。」(p281)

その方法は、以下の通り。

  1. 肉体の生命つまり活力を物質界の脊柱にある神経センターに集める
  2. それを脊柱に沿って頭部に上昇させる
  3. それを頭部に集中させ、松果腺とブラフマランドラ・チャクラを経由して、意図つまりスートラートマに沿って抽出する
  4. その結果、見る者は自らの真の形態、つまり人間の目には見えないエーテル体に位置するようになる。


22 カルマ(つまり結果)には二種類ある。直ちに起こるカルマと将来に起こるカルマである。この二種類のカルマに完全に集中した瞑想を行うことによって、ヨギは自分が三界においてどれだけの期間経験を慎むことになるかを知ることができる。これは様々な徴からも知ることができる。
(同様にして、音その他【触・味・香】の消失も説明される。)
(カルマ[の発現]には急進的と斬新的とがある。それに対する総制(サンヤマ)から、あるいは死の兆しから死期を知る。)

『図説』は、すみやかに果を結ぶ「急進的」なカルマと果を結ぶのが遅い「漸進的」なカルマがあるとして、

「おのれのサンスカーラの精確な情報をつかんでいれば、くるべき死の、精確な時間が予測されるはずだ」(p302)

と解釈している。

『魂の光』では、まずカルマとは、現在の生涯に関するものである、と明記し、

「この人生で起こるすべての出来事が以前の転生で自分自身が作った原因の結果であることを知っている。・・また、現在の人生におけるすべての行動が、以下のようにならない限り、必ず(別の生涯において)結果を生じさせることも知っている。」(p283)

  1. 結果が直ちに生じ、現在の生涯において実を結ぶ。
  2. 行為が非利己的な動機で、しかも完全に無執着に行われたため、どのようなカルマも生み出さない。そのとき彼は法則に沿って望ましい結果を生じさせるが、それは彼自身にはどのような影響ももたらさない。

「転生に入るとき、果たすべき結果があとわずかしか残っておらず、行うこと全てがカルマから解放されているとき、見る者は、自らの人生経験に期限を定めることができ、解放の日が間近に迫っていることを知る。瞑想を通して、そしてエゴとして機能する能力によって、彼は原因の世界に到達でき、数少ない残りのカルマを果たすまでに何かをしなければならないかを知る」(p283)

このスートラでいう徴(しるし)とは、
a 数
b 色
c 波動
であり、これを理解することによって、自らのオーラが「死を生み出す」影響力から解放されていることを認識するのだと言う。


23 他者との合一は、感情の三つの状態 - 同情、優しさ、平静 - への一点集中した瞑想によって得られる。
(カルマには、速やかに発現すものと徐々に発現する者との二種類がある。それらあるいは死後の前兆にサンヤマを施すことによって、私語を知ることができる。)
(友情に始まるもの(同情・喜び)においては、諸々の力が[生ず]。)

『図説』では、友情、同情、喜びなど、ポジティブな感情そのものにもサンヤマすることを説いている、としている。

『魂の光』では、

a 同情。利己的で貪欲な熱情の反対物。
b 優しさ。常に厳しく、自己に没頭している自己中心性の反対物。
c 平静。欲望や欲求の反対物。

これらを理解し、共感するようになったとき、人はすべての人間の魂と連結する、と説明する。


24 象の力に一点集中した瞑想によって、そのフォースつまり光が目覚める。
(25 像その他の動物の力にサンヤマを施すことによって、それらの力を得ることができる。)
([象などが有する]諸々の力に[総制(サンヤマ)を為せば]、象の力をはじめとする[諸々の力が生じる]。)

『図説』では、きわめて強い動物である像にサンヤマすれば、その力がもたらされる、とする。

『魂の光』では、上記のような通常の解釈に対して、本書は科学的な教科書である、と一蹴し、まず本書の目的をリマインドしている。

  1. 精妙な領域へと入ることができるよう熱誠家を訓練すること。
  2. マインドを支配する力を与え、その結果として、マインドをより高位の世界のヴィジョンを得るための器官として、そして魂と脳との間の伝導体つまり媒介として意のままに使用できる道具にすること。
  3. 頭部内の光を目覚めさせること。
  4. 肉体の日を目覚めさせること。
  5. 魂、マインドを経由しての脳、センターの間に調整統合を生み出すこと。
  6. その結果、それまでは眠っていた脊柱基底の火が目覚め、安全に上昇できるようになり、究極的には頭部内の火つまり光と融合し、エゴが使用できるようにするために「あらゆる不純物を焼き尽くし、すべての経路を清めて」出ていく。
  7. このようにして魂の能力、つまり行為と低位のシッディを発達させ、人類に使える有能な奉仕者が生まれる。

像は、脊柱基底センターつまりムラダーラ・センターの象徴であるという。これがひとたび目覚めると、何も敵でなくなるのだそうだ。

「この「像の力」を瞑想することで、第三様相の力、つまり物質そのもの、聖霊なる神、ブラフマのエネルギーが目覚め、第二様相つまり意識様相、魂のエネルギー、ヴィシュヌ、キリストのフォースと結合する。これは、完全な一体化、つまりラージャ・ヨガの目標である魂との肉体の合一を引き起こす。」(p289)

しかし、八支則を行った者のみが、このような一点集中した瞑想が許されるのだそうだ。


25 目覚めた光への完全に集中した瞑想によって、精妙なもの、隠されたもの、遠くにあるものを意識することができる。
(26 内なる光へのサンヤマによって、微細なもの、秘匿されたもの、遠方のものをしることができる)
(特殊感覚(プラヴリッティ)の光に[総制を]置くこと(ニャーサ)により、微細なもの、覆われたもの、遠くにあるものの知識[を得る]。)

『図説』は、このスートラでは
「サンヤマの結果目覚めたこの内なる智慧の光そのものを、あらゆる微細な対象 -不可視のもの、遠く離れたもの‐に直接放射することが説かれている。」(p308)
としており、この後のスートラで、微細な対象についてのいくつかが列挙される、とある。

『魂の光』では、
「この光は内的放射と言う性質を帯びており、頭部内の松果腺の近くに位置し、魂の活動によって光を放つようになる。」(p204)

としており、

「この光を通して私たちは精妙なもの、つまり精妙な諸体を意識的に使用したときにだけ知ることができるものに気づくようになる。」(p204)

という。

精妙な諸体とは、アストラル体、メンタル体のことだが、通常、私たちはこれらが機能していることを意識していない。しかし、この光を通して、それらにも気づくようになる。

「自分の光を輝かせている人には神秘が明らかにされ、その人は知る者になる。遠くにあるものや未来もまた同様に彼には明らかになる。」(p294)




# by phytobalance | 2019-01-05 16:27 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第三の書 スートラ9 ~17

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前回から第三の書に入った。

第三の書のタイトルは、ヴィブーティ・パダ。

『魂の光』では、合一の達成とその結果。

『インテグラル・ヨガ』では、成就部門。

『図説ヨーガスートラ』では、超能力!!

前回は、八支則の最後の三つ、ダラーナ/集中/凝念、ディアーナ/瞑想/禅定、サマーディ/観照/三昧、それらがサンヤマというプロセスであること、そして、その結果起きることなどの説明であった。

今回は、その続き。
難しい。

では、スートラ行きます。
今回も『図説ヨーガ・スートラ』とともに。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』〔本文では『図説』〕)


9 メンタル的な状態は以下のように連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。
(生起してくる印象〔サンスカーラ、雑念〕は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心との結合の刹那が二ローダ・パリナーマ〔止滅転変〕である。)
(制御(ニローダ)の転変は、[心の活動の]〈雑念(ヴィユッターナ)〉の心素(サンスカーラ)が抑えられ、〈制御(ニローダ)〉の刹那(瞬間・クシャナ)が心(チッタ)と不離に結びつくこと。)

『図説』では、このスートラにあるParinamah(変転)の制御に関して、仏教の「刹那滅」の概念で説明している。

「あらゆるものは、刹那(クシャナ=1/75秒)の間だけ存在する。しかし、滅し、次の刹那には別の存在が起きる。すべての刹那ごとに、生じ、変じ、滅する。その連続である。・・・われわれが経験する物事は、外の現実であれ、心の中のことであれ、ともに刹那ごとに変化する不安定な状態である。」と。


『魂の光』は、このスートラは非常に多様に翻訳されているが、どれも極めて曖昧であるという。

『魂の光』では、以下の通り解釈している。

1. 瞑想の対象を意識する。これがマインドを刺激し、印象づけ、「思考原理の変異」を引き起こす。
2. この傾向を征服する必要性に気づくようになり、意志を発動させて、マインド・スタッフが変異し、形状をとるのをやめさせるためにマインド・スタッフを安定させ統御する。

これらの努力を継続することで、この二つの意識状態の連続して起こる性質は徐々に相殺され、対象の認識とそれに反応するチッタの統御が稲妻の閃光のように一瞬のうちに起こる。これを「ニローダ」という。
 
3. 突然、低位の意識状態から滑り出て、知覚者、つまり思考者と自分自身が一体であることを認識する。マインドは統御されており、見た対象が何の反応も刺激しないため、真のアイデンティティはそれまで覆い隠されていたものを知覚できるようになる。

知覚者はそれ自身の界層においては、その時認識するものに常に気づいている。道具であるマインドが統御されると、思考者が統御されたマインドを経由して、知覚したものを脳に印象づけることができる。

しかし、直感知覚の閃光、ヴィジョンとイルミネーションなどは、すべて一瞬に過ぎ去る。しかし、リアリティの一瞥は脳に感知される。


10 マインドのこの習慣を養うことによって、霊的知覚は次第に安定するであろう。
(ニローダ・パリナーマの維持状態は、習慣づけによって確実となる。)
(これ(「心の活動の静止(二ローダ)」の状態にある心)の静かな流れは、[制御(二ローダ)の]サンスカーラから。)

『図説』でいう「心の活動が静止」するとは、刹那毎の制御(二ローダ)のサンスカーラ(心の活動の素)が活性するということ。雑念にブレーキをかけることも心の活動であるから。

なるほどね。

『魂の光』は、少し違う角度でこのスートラを解釈しているように思える。

「マインドを安定させる習慣を確立するまで絶えずくりかえすことによって、マインドの興奮と統御のバランス点をますます頻繁に達成できるようになる。」としている。」(p260)

これを達成すると

1.即座にマインドを意のままに統御する。
2.知覚者(魂)の意識が肉体脳へと降下する。

ようになる。

そして、時が経つにつれ、マインドと脳が魂によって完全に征服される。
この時のマインドと脳は、決して消極的なものではなく、積極的なものであるという。


11 この習慣を確立し、想念形態を形成するマインドの傾向を抑制することで、絶えず鑑賞していられる能力がやがて生まれる。
(〔心の〕散動が減衰して一転集中が実現してくると、サマーティ・パリナーマ【サマーティへの進展】〔三昧転変〕が現れる。)
(三昧転変(サマーディ・パリナーマ)は、心の、すべてを対象とする[雑念]状態が消えて、一つに集中する状態が生起すること。)

『図説』では、このスートラは、凝念(ダーラナー)が持続し、三昧に転変しようとする「禅定(ディヤーナ)という現象」にプラジュニャーの光を当て、刹那滅の立場から解析したもの、としている。

「心の、すべてを対象とする雑念状態」とは、じっとせずに次々と徘徊する心を指している。三昧に到るということは、「静止(二ローダ)」が現れてくる状態、それが、未来から現在に現れ出でること。

『魂の光』は、これを「絶え間ない瞑想状態の達成」、一日中「認識状態」でいること、と表現する。

まず最初に、
「黙想の習慣を培い、至高原理の変異を瞬時に抑制する能力を獲得しなければならない。」(p262)という。


12 マインドの統御と統御する要素のバランスがとれた時、一点集中の状態が生じる。
(また、過去となってひいていく想念と今まさに生起しつつある想念が等似であるならば、それがエーカーグラター・パリナーマ【一転集中】〔専念転変〕である。)
(それから、さらに、集中転変(エーカーグラター・パリナーマ)は、心の、静滅(シャーンタ)と生起(ウディタ)の等しき意識作用。)

『図説』では、このスートラは、対象のみが光輝き、己地震は空(シューニャ)のごとくなるという「三昧という現象」を解析したもの、としている。

凝念(ダーラナー)時の「制御転変」では、雑念nサンスカーラが優勢だが、やがて制御サンスカーラがそれを圧倒するが、禅定(ディヤーナ)時の「三昧転変」では、制御サンスカーラだけが活動している。三昧時の「集中転変」では、「心の活動の静止」した状態になる。

『魂の光』では、三界に関わるマインドのすべての状態、そして、自分自身も意識しなくなり、観照しているものだけを言葉の真の意味で認識するようになる、という。

その特質と様相と波動すべてが、その特定の対象を顕現させた本質的な中心となるエネルギーとともに明らかになり、また、形態の背後にあるリアリティと自分自身が同一化していることにも気づく。


13 この過程を通して、あらゆる対象の様々な側面が知られ、その特性(形態)、象徴的な性質、時間的条件(発達段階)における具体的な用途が知られ、認識される。
(これ【=以上の三つのスートラ】によって、物質元素と感官に関する、可視的特性と時間的位相と状態の転変も説明された。)
(これ(II-9~12の心の転変)によって、[地などの]元素(プータ)と[眼などの]期間(インドリヤ)における、「様態(ダルマ)」と「特徴(ラクシャナー)」と「位置(アヴァスター)」の[三つの]転変がとかれた[ことになる]。)

『図説』では、「元素と器官の「様態の転変」は、III-9、10の「制御の転変」に相し、「特徴の転変」は、III-11の「三昧の転変」に相当し、「位置の転変」は、III-12の「集中の転変」に相当する、と解釈している。

しかし、「制御」「三昧」「集中」の心の転変が深まりゆく瞑想の連続的な境地、つまり、念力が元素や器官に浸透してゆくプロセスをあらわしたものと捉えることもできる、という。

『魂の光』では、転変という表現はされていない。

1. 形態の特性:顕現しているアイディアの、感覚によって接触できるものがまず考察され、忘れられる。あらゆる形態は、波動率、リズム、光、オカルト的な色彩を宿している。
2. 象徴的な性質:象徴とはアイディアを具体化するものであり、何等かの生命が客観的な存在として表現されたものである。すべての象徴つまり形態には、完全な意識の啓示と、意識様相がおおいかくしている唯一なる生命が顕現するという啓示が秘められている。
3. 時間的条件における具体的な用途:対象に一転に集中し、その特徴を瞑想し、形態によっておおいかくされているが意識という要素がその証拠となっている生命を観照するとき、現在の発達段階に気づくようになる。

「したがって、この三つの段階の瞑想を正確に行うならば、すべての知識を手にいれることができ、「永遠なる今」が自然界の認識された事実になり、進化計画との知的な協力が可能になる。奉仕は完全な理解に基づくものになる。」(p265-266)


14 すべての対象の特性は、すでに獲得されたか、顕現しつつあるか、潜在しているかのいずれかである。
(本性的に、潜伏・生起・非顕現の諸相を経ていくのは、根底体【プラクリティ】である。)
([これらの転変のなかで]実体(ダルミン)は、[機能を]休止した現象(ダルマ)(過去)と、生起している現象(現在)と、限定されない現象(未来)に従う(内在する)もの。)

『図説』は、「ひとつの実態のなかに、過去・現在・民来の三世が同居する。総制(三ヤマ)にすぐれたヨーギンが観れば、現在のなかにも過去と未来が在る。」としている。

『魂の光』では、

「時空間内においてすべての特性には相対的な価値がある。目標はひとつであり、起源は一つであるが、聖なるエネルギーの偉大な七つの息つまり流れの波動率に違いがあるため、それらに影響を与える生命は異なっており、特有のものである。七人の光線の主の発達段階は同一でない。」(p266)

と、全く持って秘教的な世界を繰り広げている!

そして、一つの真実は様々な形提示されているが、それらが与える情報を探求することは興味深いであろう、としいる。その情報は、

1.七つの光線
2.玉座の前の七つの霊
3.七人の惑星ロゴス
4.七人の偉大なる主
5.七つの劫期
6.七つの放射
7.七つのプラージャパティ

としている。これだけでは分からない。

「他にもあまり知られていない様々な用語があるが、この表は多くの光を射し入らせるであろう。」(p267)とのこと。

特性を帯びた形態に見られるその特定の発達段階と発達の欠如について考察すると明らかになること、3つ。

a 獲得したすべてのもの。過去が与えたもの。これは、その対象の魂が今のところ鳴らすことができる和音すべて。
b その獲得物全体のうち、その生命が特定の形態を通して顕現しつつある特定範囲の特質。これは、その対象の魂が獲得した和音のうち、響かせることを選択した現在の音色。
c 潜在しているおこりうるもの。この知識は二つのものを明らかにする。
・ 観照している形態を通してかいかされることになる隠れた可能性
・ 現在の世界周期において様々な形態を通して開花することが可能な隠れた可能性
 これは未来おける様々な発達を網羅するもの。これにより、偉大なる進化周期が終了したときに完成する和音を知る。

よく分からない。


15 移ろいやすいサイキック性質と思考原理の変異が様々である原因は発達段階にある。
(それらの諸相の連続が、進化〔転変〕に諸段階の存在する理由である。)
(転変の異なることの原因は、順列(クラマ)の相違。)

『図説』のスートラの解釈は、元素は転変には順列があるが、ヨーギンは、順列をいじって転変に変化を促すことができる。なぜなら、現在の中に過去も未来もあるから。そして、順列を変えることで、気たるべき転変も変わる。

これが超能力の基本原理であるという。

『魂の光』は、先のスートラから出てきているように、発達段階で説明している。

この後のスートラでは瞑想の結果について、これまでのスートラは真の瞑想が可能になる前に克服しなければならない障害や困難について述べられており、このスートラでは、その克服への鍵、道を志す熱誠家たちの間にある差異は、を示している、としている。そして、それが、発達段階である。

「進化の梯子において自分がどの辺に位置しているかを突き止め、自らの長所と短所を見極めることは、自称熱誠家にできる最も有効な活動である。到達した段階と踏み出すべき次のステップを理解することは、真に進歩するためには不可欠である。」(p268)


16 あらゆる形態の三重性質への集中した瞑想によって、これまでに存在していたものと、これから存在するようになるものが明らかになる。
(進化のその三段階にサンヤマ〔綜制〕を施すことによって、過去と未来についての地が生まれる。)
(過去と未来途についての知識は[様態(ダルマ)・特徴(アヴァスター)・位置(アヴァスター)の]三つの転変に対する総制(サンヤマ)から[生ず])

『図説』では、「様態」は、変わりやすいみかけや形態、「特徴」は、その実態を一貫して特徴づけている何かであり、「位置」は、過去・現在・未来の時間座標における位置であり、これらの三つの転変は、刹那滅の連続にサンヤマすれば、一目瞭然に見渡すことができる、と説明している。

『魂の光』では、このスートラは、瞑想によって、聖なる顕現に関する真実を知るに至るということだけでなく、偉大なる原因結果の法則と進化的開花の過程全体が認識される、ことを示しているという。

瞑想によって、今存在しているものは存在しているものの結果であり、これから起こることは現在作っている原因の成就であることが分かる。(原因結果の法則)

また、瞑想によって、発達の周期は、三つの段階に分けられる一つの過程であることが分かる。(進化の過程)

三つの段階は三つの次元に、過去は第三様相(知的質料)、霊性、ブラフマ様相に、現在は第二様相(意識)、キリスト、ヴィシュヌ様相に、未来は霊の様相、最高位の父の様相に対応しているからである。


17 音(つまり言葉)、それが表すもの(つまり対象)、体現された霊的本質(つまりアイディア)の三つは通常、知覚者のマインドの中で混同されている。この三つの様相への集中した瞑想によって、あらゆる生命形態が発する音いついての(直感的な)理解が生じる。
(通常は、語と、その意味と、その後の表彰内容とを混同するために、混乱が生ずる。いかなる生類により発された語【あるいは音】でも、それに三ヤマを施すことによって、その意味をしることができる。)
(言葉(シャブダ)と[その]対象(アルタ)と[言葉のあらわす]想念(プラティヤヤ)とが、相互に誤って関連づけられるゆえに混乱あり。これらの区別の総制(サンヤマ)から、全生類の叫び声についての知識が[生ず]。)

『図説』では、言葉と、その対象と、その想念(または認識)とを、相互に誤って関連づけているのは分別である、という。サンヤマは、この三つの識別に向けられる。さらに、あらゆる生物の声の意味も察することができるようになる。

『魂の光』では、混同されているものは、三つの様相が混同されているとし、霊的本質を第一様相、音を第二様相、対象を第三様相に対応させている。

そして、このスートラは、瞑想過程全体の目標を理解するためのカギを握っているため、この書で最も重要である、としている。

それは、
「知覚者つまり霊的人間に、自己の真の性質つまり第二様相と、人間以下の生命形態すべてに内在する、第二様相に対応するものを明らかにするとともに、人間を超えた形態すべてに内在する第二様相に連結させるものである。」(p270)であるから。

これだけだとちょっと分かりにくい。

各様相の関連用語が挙げられている。
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これを見れば、つまり、第二様相である魂、そして、音(言葉)が、霊的本質と対象を結びつける(本質を顕現させる)ものであることが分からないでもない。

「したがって、このスートラはすべての顕現の主観的な側面に関係しており、あらゆる形態において意識様相を構成している様々なフォースについて述べている。これらのフォースはキリスト原理(ブッディ原理)に関係しており、客観的顕現の直接原因でもあり、形態を通して霊を明らかにするものである。」(p270)

つまり、キリスト原理のフォースが、形態を顕現させ、本質を明らかにしている、ということ。

「これはアウム(AUM)である。最初に、それから言葉、そして存在するすべてのものが現れたのである。」(p270)

アウムは第二様相だからね。

「すべての形態における三つの様相を識別できるようになったときに初めて、これを消散できるようになる。」(p271 )

「修得しなければならない当面の知識領域は第二様相であり、すべての形態を顕現へともたらした音つまり言葉に到達しなければならない。この音つまり言葉は、本質がひきおこしたものである。」(p271 )

難しいね。




# by phytobalance | 2018-12-30 21:21 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第三の書 スートラ1~8

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いよいよ第三の書!

第三の書は、八支則の最後の3つ、集中(ダラーナ)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)について扱っており、

「マインドの統御とその統御によって生まれる結果」(p243)

について具体的に述べているとのこと。

「最初の十五のスートラでは、マインドの統御とその達成方法が述べられており、残る四十のスートラでは、この統御を達成したのちに起こる結果について述べられている。」(p243)


では、スートラ行きます。
今回は、『図説ヨーガ・スートラ』も見てみた。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』本文では『図説』


1 集中とはチッタ(マインド・スタッフ)を特定の対象に固定することである。これがダラーナである。
(集中とは、心を一つの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。)
(凝念(ダーラナー)は、心の[活動が][ある]処に結びつくこと。)

このスートラの訳は、どれもそんなに違わないように思える。

『図説』では、まず、八支則の最後の3つ、

「凝念→禅定→三昧のプロセスを経て、集中力が最大限に高められ、神通力を可能にする、サンヤマ(という魔法の力(シャクティ))が練り上げられる。三章は「サンヤマ章」と呼び変えてもいいほどに、その話題はサンヤマに終始する。八支則の目的は、サンヤマ獲得にある - と言っても過言ではない。」(p254)

と、ある。

集中力は、精進(I‐20、五力のひとつ)と、心を安定させる瞑想(I-33-39)とクリヤー・ヨーガ(II-1, 2)と八支則の最初の五つを通して、煩悩を弱めることにより、比較的容易に得ることができる、のだそうだ。

『魂の光』では、集中の段階を以下のように分けている。

1. 集中する「対象」を選択する。
2. マインド意識を肉体の表面から撤退させ、外的な知覚と接触の経路(五感)を静め、意識を外に向けないようにする。
3. 意識を集中させて、頭部内の眉間の中心にしっかりと置く。
4. 集中の対象として選んだものにマインドを集中し、そこにしっかりと注目を置く。
5. その対象を心象化し、想像力を用いてそれを知覚し、それについて論理的に考察する。
6. 特定の個別的なものから一般的で普遍的なもの、つまり宇宙的なものへとメンタル知覚を拡大する。
7. 考慮している形態の背後にあるものに到達しようと試みる。つまり、その形態の原因であるアイディアに達しようと試みるのである。

「この過程は意識を次第に高め、熱性かが顕現の形態面ではなく生命面に達することを可能にする」(p244)のだそうだ。

まず、形態、つまり、「対象」から始めるのだそうだが、対象には四種類ある。

1. 外的な対象。神のイメージ、海外、自然界の形態のような。
2. 内的な対象。エーテル体のセンターのような。
3. 様々な美徳といった特質。その際に、これらの美徳を得たいという願望を目覚めさせて、パーソナリティの生活の一部にしようという意図を持って行う。
4. メンタル的な概念、つまり、生命を吹き込まれたすべての形態の背後にある理想を体現するアイディア。これらは象徴もしくは言葉の形をとることがある。

かなり具体的に書かれている。

ヴィヴェーカナンダは、ダラーナを「マインドを十二秒間ひとつの考えに保つこと」としているそうだ。

他の対象や考えが意識に全く入ってこない、という状態を保つのは極めて困難だそうだが、12秒間でもできたならば、真の集中が達成されようとしていると言える、のだそうだ。

12秒!!


2 集中(ダラーナ)を続けることが瞑想(ディヤーナ)である。
(瞑想とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。)
(禅定(ディヤーナ)とは、そこ(凝念(ダーラナー)に置いて、想念が一点に集中しつくす状態。)

『図説』は、禅定(ディヤーナ)は、凝念(ダーラナー)の発展系である、と表現している。

雑念が全くない、ダーラナーの瞬間の次に、注意散漫の瞬間が来て、また、雑念を放ち、念を凝らす対象に戻る。これを何度も繰り返す。しかし、注意散漫、雑念が起こらず、毎瞬、唯一の対象に集中が途切れることなく続けられるとき、ディヤーナーと呼ぶ、としている。

『魂の光』でも、二つの違いは時間という要素だけである、とある。

「その人の態度は純粋な注目の固定になる。肉体、情緒、周囲の環境、すべての音や光景は目に入らず、脳は瞑想のテーマつまり種子である対象と、その対象に関連してマインドが形成する想念だけを意識するようになる。」(p247)


3 チッタが、リアリティであるもの(つまり、形態に具体化されたアイディア)に吸収され、分離性や個我を意識しなくなった時、それは觀照つまりサマーディと呼ばれる。
(三昧とは、この瞑想そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。)
(三昧(サマーディ)とは、それ(禅定(ディヤーナ))に置いて、じつに対象のみが光り輝き、おのれ自身は空(シューニャ)のごとくなること。)

『図説』は、禅定(ディヤーナ)では、<対象>に集中する<自分>がいるが、<自分>が<対象>に集中することに没入する時自我が消滅し、<自分>と<対象>の対立、ないしは二元性は融解し、《対象》だけがある状態をサマーディであると言う。

『魂の光』では、觀照(サマーディ)の状態において、

1. 脳意識、つまり、時間と空間に関する物質界での理解。
2. 瞑想過程の主題に対する情緒的な反応。
3. メンタル的な活動。

は、ヨギの視野にはない、としている。

マインド・スタッフや欲求性質の妨害を受けない時、ヨギは、

1. 魂意識への没入
2. 感覚知覚の世界である三界階からの解放
3. 人間以下、人間、人間以上のすべての魂との一体性の認識
4. イルミネーション、つまり、顕現の光の様相の知覚

の四つの顕著な特性を帯びた状態に「入る」。


4 集中と瞑想と觀照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。
(同一の対象についてこれらの三者【集中、瞑想、三昧】をなすことが、サンヤマ〔制]と呼ばれる。)
([集中、禅那、三昧の]三つは、ひとまとめにして、総制(サンヤマ)[と呼ばれる]

『図説』では、この三つをまとめてサンヤマと呼ぶが、あえて三つに分けているのは、そのプロセスが重要であるからであろう、としている。

『魂の光』は、完全に集中した瞑想する能力、サンヤマの修得により、

1. 自分自身をマインド、情緒、物質的な存在の三界から解放する。
2. 意のままに注目を焦点化し、マインドをいつまでもしっかりと維持できるようになる。
3. エゴつまり魂、霊的人間の意識に集中できるようになり、マインド、情緒、欲求、感情、形態とは自分自身が別の存在であることを知る。
4. 低位人間(メンタル状態、冗長、物質原子の総和)を、低位三階と意のままに交流するための単なる道具と認識するようになる。
5. 觀照する能力、つまり魂の領域へと向かおうとする真のアイデンティティの態度を獲得し、人が肉眼で物質界を見る方法に対応する感覚で魂の領域を見ることができるようになる。
6. 自分が見たものを、統御されたマインドを経由して脳に伝達し、その結果、真我とその王国についての知識を物質界の人間に伝えることができるようになる。

のような結果を引き起こす。

「ラージャ・ヨガ体系の目的は瞑想する能力を獲得することである。」(p251)

実は!これよりさらに高位の意識があるとのこと。

「非常に高い段階であるが、肉体人間のうちに驚くべき効果を生み出し、彼を様々な現象へと導く。 」(p251-252) のだそうだ。


5 サンヤマの結果として、光が輝きでる。
(サンヤマ〔制〕の修了によって、知の光が生まれる)
(それ(総制(サンヤマ))の勝利より、般若(プラジュニャー)が光りかがやく。)

『図説』は、サンヤマが修得されて三昧の境地が深まると、霊妙なる光(プラジュニャー)が発せられるとしている。それは、識別と超能力を可能にする、魔法の力の精髄(シャクティ)である、と。

『魂の光』では、その能力を

1. 知覚のイルミネーション。以前は見えなかったものを脳意識において知覚できるようになる。
2. 意識の透明性。すべての問題を説明し解決する能力だけではなく、「明快に話す」能力が成長し、世界において教えを示す勢力の一員になる。
3. 洞察力の輝きだし。形態の「内側を見る」能力、主観的なリアリティに到達する能力。それは自分の中にあるリアリティと同じ。
4. 知性にイルミネーションをもたらす。隠れたものごとを脳に伝達し、印象づけることができるようになる。

としている。

1の知覚のイルミネーションの過程は次の通り。

a 瞑想
b 魂つまりエゴ意識への編極
c 觀照。つまり、知ろうとするもの、調べようとするもに魂の光を向ける。
d その結果として、突き止めた知識が「イルミネーションの流れ」に乗って、スートラートマ(魂の糸、白銀の糸、磁力的なつながり)を経由して脳に降下する。この糸はマインドを通過するため、マインドにもイルミネーションをもたらすことになる。伝達された知識に対するチッタ(マインド・スタッフ)の自動的な反応で生まれた想念が次に脳に印象づけられ、その人は肉体意識において、魂が知るものを認識するようになる。彼はイルミネーションを受けるのである。


6 このイルミネーションは徐々に起こるものであり、段階を追って発達する。
(サンヤマ制〕は、段階的になされるべきである。)
(それの[実践は]、諸段階に適用される。)

『図説』は、三昧には階層があるとして、第一の書で見た

・サヴィタルカー、ニルフィタルカー、サヴィチャーラー、ニルフィチャーラーのサマーパッティ、ニルビージャ(無種子)のサマーディ

が、それであると解説している。

『魂の光』では、界層を意識しているようではなく、

「何事も一度に達成できず、長きにわたる地道な努力の結果として達成できる」(p254)とある。

「堅忍、我慢強い努力、日々の小さなことの達成は、感情的で気まぐれな人の猛烈な全身や熱狂的な努力よりも価値がある。発達を過度に強いることは非常に明確かつ具体的な危険を起こす。」(p255)


7 ヨガの最後の三つの方法には、それ以前の方法よりも奥深い主観的な効果がある。
(これらの三支【集中・瞑想・三昧】は、それ以前の五支〔禁戒・勧戒・坐法・調気・制感〕よりも内的である。)
([総制(サンヤマ)の]三つは、以前の[禁戒(ヤマ)などの五つ]よりも、内的な支則。)

『図説』は、支則は外的と内的に分けられているとし、

「身体行為の戒律である①ヤマ、②ニヤマはもちろんのこと、③アーサナ(姿勢)、④プラーナーヤーマ(呼吸)、⑤プラティヤーハーラ(感覚)が外的と思われてくると、それらは背後に去り、自覚の向こうに脱落する。」
そして、
「⑥凝念(ダーラナー)、⑦禅定(ディヤーナ)、⑧三昧(サマーディ)が、内的に想われてくる。」(p266)

と、説明している。

『魂の光』も同じように説明しているが、さらに、

「ヨガの八つの方法そのものはすべて、思考を超えた霊的な意識状態、つまりどのような思考の種子とも離れ、形態がなく、統合、認識、同一化、ニルヴァーナ意識といった用語(それでも不十分ではあるが)でしか描写できない状態への準備を人間にさせるものでしかない。」(p255)としている。

「理解を可能にする内的器官を発達させるまでは、初心者が理解しようと試みても無駄である。」(p256)だそうだ。


8 しかしながら、この三つの方法でさえも、対象に基づかない真の種子のない瞑想(サマーディ)から見れば外的なものである。それはチッタ(マインド・スタッフ)の識別的な性質の影響を受けることはない。
(これらの三支さえも、無種子三昧にとっては外的である。)
(これ(総制(サンヤマ)も、無種子(ニルビージャ)に対しては、外的支則。)

『図説』の解説は、種子と無種子、対象のある・なしで説明している。

「サンヤマの状態においては、心の働きが滅しても、心を構成している三グナは活動しているから、心の転変は無くならない。

集中→瞑想→三昧のプロセスは、対象に関連した実践である。
無種子三昧には、対象がない、対象の最小の核の種子(ビージャ)すらもたぬ。」
(p267)

『魂の光』でも、その解釈は同じようであるが、知覚の二つのタイプとして、

「生きているものの知覚と生命の知覚。魂の働きの知覚と魂そのものの知覚。」(p257)と表現している。

「自己、つまりすべてといったいであり認識とエネルギーがまさにその性質である全治にして全能なる知るもの以外は何も残らないのである。」(p256)




# by phytobalance | 2018-12-28 21:33 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ46 ~55

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今回は、八支則の3番目アーサナに始まり、4番目プラナーヤマ、5番目プラティヤーハラまで。
そして、第二の書が終わる。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』


46. 安定した楽な姿勢でいなければならない
(アーサナ〔坐法〕は、快適で安定したものでなければならない。)
(アーサナは、ゆるぎなき快(スカ))

ここから3番目のアーサナ、『魂の光』では、「姿勢」。

これは、肉体に関してだけでなく、三つの低位性質についても言及しているという。

1. 瞑想中の安定した不動の肉体の姿勢
2. アストラル体の堅固で安定したゆるぎない状態
3. 完璧に統御され同様することのないしっかりとしたマインド

そして、
「この三つのうち最も重要ではないのが肉体の姿勢であり、肉体の存在を最も早く忘れることのできる姿勢が最良である」(p219)
と続く。

肉体は必要なんだけど、(楽な!)姿勢で早く忘れなさい、という。


「一般に言って、快適な椅子に背筋を伸ばしてまっすぐに座り、足を自然に組み、手は膝の上で組み、目を閉じ、顎を少し引くのが西洋の熱誠家にとって最も良い姿勢」(p219)とある。

東洋では、姿勢の科学として84の姿勢があるとのことだが、これは、ハタ・ヨガの一派であり、第五本人種が従うべきものではないのだそうだ。

レムリア時代の弟子は肉体を統御することを学び、情緒の統御を志しながら、ハタ・ヨガを通して、イシュヴァラヘの奉仕に肉体を捧げることを学んだ。
アトランティス時代の弟子は情緒体を統御することを学び、知性の統御を志しながら、バクティ・ヨガを通して、イシュヴァラヘの奉仕に情緒体を捧げることを学んだ。
アーリア時代の弟子はメンタル体を統御することを学び、内に住む者つまり魂の知識を志しながら、ラージャ・ヨガを通して、イシュヴァラヘの奉仕にメンタル体を捧げることを学場なければならない。
このようにして、この根本人種においてはていい人間全体つまりパーソナリティーが征服され、人類の「変容」が起こるのである。」(p220)


47. 少しばかりの努力を続け、マインドを無限なるものに集中することによって、安定した楽な姿勢が達成される。
(自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、坐位は修得される。)
(努力をゆるめ、アナンタと合一(サマーパッティ)することにより〔ゆるぎない快に到る〕)

肉体を忘れようとする努力は、
「不慣れで不快な体位や姿勢を乱暴に肉体に強いることによってではなく」、
「着実かつ穏やかな実践を継続して行うことによって成し遂げられる」(p221)

無理して頑張るな!ってことね。

「肉体を忘れることでマインドを集中させることができるようになり、肉体について考えることができないほどマインドは一点に集中する。」(p221)

からだ痛かったら、痛いところ気になるものね。


48. これを達成したとき、もはや相反する対をなすものは限定にはならなくなる。
(以後その者は、二元性によって乱されることがない。)
(かくて(アーサナが成就したとき)、二元性(ドワンドワ)に苦しむことなき[境地に到る]。)

相反する対をなすものとはアストラル体に関するものであるが、人間のアストラル体は二つのタイプのエネルギーに反応するという。

イリュージョンの誘惑に反応するか、メンタル体を用いて魂の声に反応する。
魂の印象付けに注目するか、この世の無数のケオに揺り動かされるか。

物質界とメンタル界が正しく調整され、物質界での安定とメンタル界での一点集中が達成された時、相反する対をなすものはもはや限定にはならなくなる。

バランス点が達成され、解放され、自由になる!


49. 正しい姿勢(アサナ)を達成したとき、プラーナは正しく統御され、吸気と呼気は適切になる。
(それ【安定した坐位】が得られたならば、呼気と吸気が制御されねばならない。これがプラーナーヤーマ「調気」である。)
(プラーナーヤーマは、かような[アーサナの]状態において、呼気と吸気の流れを断つこと。)

ここからは、四番目プラーナヤマ。

プラーナは、肉体にあるエネルギーの総和であり、エーテル体へのエネルギーの流入と、肉体を通しての流出に関係しているため、肉体においては呼気と吸気に象徴されているのだそうだ。

プラーナヤマの作用は、

1. 血液に酸素を取り入れ、血液の流れを浄化し、結果的に肉体を健康にする。
2. 肉体をエーテル体の波動と同調させる。その結果、濃密な肉体が完全に支配され、エーテル体と一致するようになる。
3. エーテル体を経由して濃密な肉体のあらゆる部分へエネルギーを伝導する。

こと。


50. プラーナ(生命の流れ)の正しい統御は外的なもの、内的なもの、そして停止からなる。それは場所と時間と数に左右され、また長くなったり短くなったりする。
(気息のはたらき〔ヴリッティ〕は、内部的・外部的・静止的のいずれかである。それらは時間と空間と数によって規定され、長・短のいずれかである。)
(外的(吐息)と内的(吸息)と静止(止息)の活動は、場所と時間と数によって調整され、長く微細。)

このスートラにあるプラーナの外的な統御とは、肉体期間を適切な状態にするために呼吸法やリズミカルな行法を行うこと。

また、内的な統御とは、1)エーテル体の性質とその生命を支配する法則を知的に理解する、2)エネルギーのタイプと、エーテル体にあるそのエネルギーのための器官(センターシステム)を考察する、3)熱誠家に準備ができた時にもたらされる発達と知識、によって、成し遂げられる。


さらに、停止することによる統御とは、外的な統御と内的な統御がもたらす結果なのだが、肉体の二つの部分が完全にバランスが取れ、同調し、完全に融合していることであり、フォースの流入流出が妨害されることがない状態である。


そして、スートラにある場所、時間、数というこの単語が、占星学的な意義に関するヒントを与えている、と書かれているが、どうもさっぱり。

「これらの単語において普遍的な三位一体を認識しなければならず、生命の流れの正しい統御がカルマと機会と形態に関係していることを理解しなければならない。」(p229)

ヨギを人生の支配者にするいくつかの言葉として、

音・・・数・・・色・・・形態
言葉・・生命・・光・・・体

があげられており、これらの要素が、あらゆるアイデンティティの表現の総和を構成している、ということだ。

先にあった占星学的な意義だが、つまりは、これらの要素は、一つの惑星や様々な惑星と人間との関係、星々と横道帯の様々な星座との関係の基礎でもある、という意味らしい。


スートラの最後に「長くなったり、短くなったりする」は、意味が分かりにくいが、「長かったり、短かったりする」という意味ではないかと思える。

なぜなら、先にも説明があったように、これは、呼吸そのものの状態を指しているのではなく、プラーナの正しい統御のことを指しており、その正しい統御を通して「イルミネーションをもたらす過程」が可能になるのであるが、それには、次の過程の一つが起こるのを「待っている」とあるから。

a. 真の霊的人間が行為階層で機能するために撤退する。
b. あるいは、光とイルミネーションと知識がエゴの界層から低位脳意識へと降下する。

これらが起きるのに時間がかかったりそうでなかったりする、ということではないのだろうか。


51. 内的な面と外的な面を扱う階段を超えた四番目の段階がある
(プラーナーヤーマには、内的なあるいは外的な対象に集中している時に起こる、第四の型がある。)
(第四のプラーナーヤーマは、外的・内的な対象の超越。)

四番目のプラーナヤマを可能にするには、準備を整える必要がある。

1. 三つの体つまり鞘の意識的な調整統合
2. それらの適切な整列
3. 様々な鞘のリズムを調整して、それらを相互に、そしてエゴの印象付けに同調させる。
4. それらを一つのまとまりのある統一体へと統合し、人間を「一の中の三」そして「三の中の一」にする。
5. 静寂、つまり、行為のインスピレーションとエゴの生命やエネルギーの効果に対する肯定的な受容の態度。


「プラーナを正しく統御するためには、存在と顕現すべてがエネルギーであり、低位三体がエネルギー体であり、それぞれがより高位のエネルギーのための媒体であり、それ自体がエネルギーの伝導体であるということを認識する必要がある。」(p231)

低位人間のエネルギーは第三様相であるが、霊的人間のエネルギーは第二様相であるキリストのフォース、ブッディのエネルギーである。人類家族の進化の目標が、この第二様相のエネルギーを物質界に完全に顕現することであり、低位の三つの鞘を活用しなければならないのである。

八支則の最初の四つの方法を行い、低位人間が適切に反応するようになったとき、残りの四つの方法を行う準備が整う。


52. それにより、光を曇らせていたものが次第に取り除かれる。
(その結果、うちなる光を覆い隠していた紗が破壊される。)
(かくて(第世のプラーナーヤーマの結果)、[般若の]光輝の覆い(カルマと煩悩)は破壊される。)

最初の四つの方法が為されたときに、
「リアリティを覆う物質形態の段階的な摩滅つまり希薄化」(p232)が起こるらしい。

そして
「それまで形態に隠されていた「神の光」が・・美を持って輝き出る。」(p232)

それは、
「浄化と生命の流れの統御により、頭部内の光ははっきりしたものになり、超自然的な視力のある人々には頭の周囲に広がる放射として見える・・」(p232)から。


53. そして、マインドは集中した瞑想を行う準備が整う。
(そして、心がダーラナー〔集中〕への適性を得る。)
(また、[プラーナーヤーマにより]意は、念に適合)

「ひとたび静寂状態が達成され、・・・マインドを掌握し、使用できるようになり、エゴつまり魂からの知識と光と知恵をマインドを経由して脳に伝える過程を安全に実行できるようになる」(p233)

この状態でやっと瞑想を行う準備となるわけね。


54. 抽出(プラティヤハラ)とは、思考原理によって感覚を支配することであり、それまで感覚の対象であったものから感覚を撤退させることである。
(諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するときープラティアハーラー〔制感〕である。)
(制感(プラティヤーハーラ)は、本来の対象と話された諸感覚が、あたかも心そのもののようになること。)

ここからが五番目の抽出、プラティヤハラ。

このスートラには、サイキック性質の統御において行うべきことの要約と、達成される結果を示している。

八支則の次の段階に行く前に、
・外的な行動を正す(ヤマ)
・内的な純粋さを達成する(ニヤマ)
・すべてのものに対する正しい態度を養う(アーサナ)
・生命の流れを統御(プラナーヤマ)
・外に向かおうとする五感の傾向を支配する能力を獲得(プラティヤハラ)

「感覚知覚の様々な経路は静かな状態になり、真の人間の意識はもはや五つの接触経路に沿って外に向かうことはなくなる。五感は第六感覚であるマインドに支配され、熱誠家のすべての意識と知覚能力は頭部内で統合され、内と上へと向かうようになる。その結果として、サイキック性質は征服され、メンタル界がその人の活動領域となる。」(p234)


抽出(プラティヤハラ)とは
「感覚がマインドに完全に同化もしくは統御されること・・感覚はその対象から引き離され、マインドに固定され、マインドと同化しなければならない。その結果、至高原理の変形を防ぐことによって、感覚も思考原理に従い、直ちに統御されるようになる。」(p235)こと。

その結果、
1. 第六感覚であるマインドによる感覚の統合
2. 三重の低位人間の整列し、調整統合された一単位として機能
3. 三体の限定からの人間の解放
4. マインドを介して肉体脳に印象付け、魂つまりエゴの能力が生じる


55. これらの方法を行った結果、感覚器官は完全に征服される。
(それより、感官に対する無上の統御が得られる。)
(その結果、諸感官の完全な統御が[得られる]。)

八支則の五つの方法を適切に行うことで、低位サイキック性質を統御し、感覚を支配しようとする地点に到達する。そして、第六感覚であるマインドの征服に取りかかることが可能になる。


これで第二の書は終わり。



# by phytobalance | 2018-12-22 14:04 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ35 ~45

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前回から、やっと八支則に入り、ヤマ、ニヤマの解釈を学んだ。

ヤマは、行ってはいけないこと、「禁戒」なのであるが、『魂の光』では、「訓戒」と呼び、外界との関係における間違った行為の抑制と解釈している。

ニヤマは、行うべきことで、「勧戒」とされるが、『魂の光』では、「規範」と呼び、内的生活に関する正しい行為と解釈している。

この後に続く以下のスートラは、このヤマとニヤマをしっかりと実践したら、ということについて、『図説』によると、その「恩恵」、について述べている。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』本文では、時に、『インテグラル・ヨーガ』『インテグラル』『図説ヨーガ・スートラ』『図説』と表記する。)


35 無害性を完成させた者の前では、すべての敵意が止む。
(非暴力に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。)
(不殺生(アヒンサー)が確立したとき、彼の在るところ、敵意は放棄される。)

このスートラは、『魂の光』『インテグラル』『図説』でも、ほぼ同じような意味合いを感じる。(あまい?)

しかし、『魂の光』では、知覚の基礎は、類似性である、などという解説が始まる。

「知覚者が敵意と憎悪を感じたとすれば、それは自分の中にも敵意と憎悪の種子が存在する・・」(p202)

さらに、
「もし(敵意と憎悪が)なければ、和合と調和しか存在しない。これは普遍的な愛の最初の段階であり、すべての存在と一つになるために熱誠家が実際に努力すべきことである。」(p202)
と、続く。

自分や他の人々に対する敵意を生む原因、つまり、自分の性質の中にある有害さを一掃すべき努力せよ、と言っている。

他人は自分の鏡、、などとよく言われるが、その通りなのだな。

『魂の光』では、これを、法則の作用である、としている。
(類似の法則、などと言うのかな??)


36 すべての存在に対して完全に真実になった時、言葉と行動の効果が直ちに現れる。
(正直に徹した者には、行為とその結果がつき従う。)
(真実語(サティヤ)が確立すれば、〔彼は人々の善悪の〕行為と結果の拠り所となる。)

『図説』では、

「真実とは、身口意(行為と言葉と思考)の間に齟齬のないことを言う。・・真実を語ることにより、他者が傷つくことがあれば、それは真実ではなく、「殺生」になる。ゆえに、ひとつひとつの言葉はそれが発せられる前に慎重に吟味されねばならない。」(p212)

と解説している。

『魂の光』では、秘教らしい解説が続く。

「何が真実かは進化が進行している間は、全く相対的なものであり、その現われ方は漸進的である。」(p203)

これまでの学びを振り返ると、このことも容易に理解できる。進化によって知覚できるものが違うから。

「真実であるためには、(蝕知できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が知覚者つまり熱誠家には必要である。」(p203)

ま、その能力をもっていれば苦労はしないわけだが、その能力とは、創造過程における最初の二つの段階に相当する。

1.正しい知覚→この場合、形態が覆うもの(本質)に接触する能力
2.正確な構築→この場合、真実をありのままに伝える形態を構築する能力

熱誠家は、以下を努力することによって、その能力を発達させることができるという!!

1.あらゆる言葉遣いに厳重に注意する。
2.奉仕の一要素として沈黙を賢明に活用する。
3.すべての行為の背後にある原因を絶えず調べ、その行動が効果のあるものになったり効果のないものになったりする理由を理解する。
4.すべての形態内にリアリティーを見ようと着実に努力する。原因結果の法則の研究が必要。


37 盗みを全く犯さなくなった時、ヨギは欲するものを何でも得ることができる。
(不盗に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。)
(不偸盗(アステーア)が確立すれば、あらゆる宝が〔おのずと〕集い来る。)

これは、「需要と供給の法則」である、と『魂の光』は言う。

「熱誠家が「分離した自己のために何も求めなく」なったとき、彼に宇宙の富を託せるようになる。・・・「すべての宝石がかれのものになる」と翻訳しているものもある。」(p205)

気を付けなくてはならないのは、これは、物質的なものの盗みだけを指しているのではなく、情緒的、メンタル的なものも対象である、ということである。愛や好意のような情緒的な恩恵、知的な利益、不当な名声の要求、誰か他の人の義務の横取り、行為や評判なども対象になる。

「他の人々が正しいことを行い、責任を引き受け、義務を果たす機会を彼から奪ってはいけない。これが真に盗みを働かないということである。」(p205)

深いね。


38 不節制をしないことで、エネルギーが得られる。
(禁欲に徹する者は、精力を得る。)
(精妙な力は、禁欲(プラフマチャリヤ)の確立において獲得。)

放蕩生活と不節制は、生命力、つまりエネルギーの浪費であるという。

「それは、生殖行為の重要性についての認識、低位の欲求や快楽に抵抗する能力、自己統御が欠如していることを意味している。」(p206)

「創造の真の性質を学び、エネルギーを蓄えること」(p206)が、弟子が最初にしなければならないことである、としている。

それは、生命原理を、発音器官、つまり言葉や音を用いて、顕現・創造、つまり変性するために、不節制をせずに、エネルギーを蓄える必要性があるからであると言う。

何をするのでもエネルギーは必要だが、私たちには創造するミッションがある!!?
エネルギーを浪費している暇はないのだ!!


39 貪欲さが完全になくなった時、再生誕の法則が理解される。
(不貪が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らし出される。)
(〔所有欲から解放され〕不所有が確固なものになれば、〔彼は、過去・現在・未来にわたって、自己の〕生の状態を、まのあたりに理解。)

『魂の光』では、

「霊を転生へともたらすのは何らかの種類の形態への欲求である」(p207)

ということを述べている。

私たちは、物と経験と形態への切望、欲求の炉の中で、自分自身の鎖を鍛造しているという。しかし、

「満足感が培われ、満足したとき、徐々にこの鎖は外れ、新たな鎖が作られることもなくなる。私たちがイリュージョンの世界から自分たちを解放していくにつれて、・・・生命がなぜどうして存在するのかがわかるのである。物質界に存在する理由と方法はもはや問題ではなくな(る)・・・」(p207)

そして、

「現在の人生周期と経験がなぜこのようなものになったかを理解し、法則を毎日実際に適用できるようになり、未来のために何をすべきかをはっきりと知る。」(p208)

のだそうだ。が、これは、五つの訓戒、つまり、ニヤマを実行したあとに起こる。

では、ニヤマ見てみましょ。


40 内面と外面の浄化によって、自分自身の形態とすべての形態に対する嫌悪が生じる。
(浄化によって、自分自信の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。)
(清浄(シャウチャ)から、おのれの身体に対する嫌悪と、他者に不接触〔が生じる〕。)

で、ここからは、ニヤマの恩恵を。
最初は、浄化。

このスートラは、直訳すると、最後のところが、「いかなる肉体とも交わらなくなる」となるそうだが、誤解を招かないように、意訳している、と『魂の光』で説明している。

まず、霊の特質は、「純粋さ」であることを明記した上で、三界との接触に用いられる四つの媒体の浄化があることを示している。

a. 外的な純粋さ   -肉体  -濃密な体
b. 磁力的な純粋さ   -エーテル体  -内的な純粋さ
c. サイキック的な純粋さ -アストラル体 -情緒的な純粋さ
d. メンタル的な純粋さ  -メンタル体 -具体的マインドの純粋さ

この純粋さは、それぞれの媒体を構成している質料に関係しており、その獲得方法は次の三つであるという。

1 不純な質料の除去。霊が自由に出入りできない原子と分子の除去。
2 霊が十分に機能できる形態を提供する原子と分子を同化。
3 浄化された形態を汚染や悪化から保護。

これは、それぞれ第1から第3のイニシエーションに相応するとのことだ!!

いずれにしても、今の時代、つまり、私たち人類の発達の段階では、上記cの「サイキック的な純粋さ」、が大きな関心事なんだそうだ。

「サイキック的」と言っても、私たちが普通にそれと思っているものは、「低位サイキック能力」と言われ、統御されるべきもの。

重視されるべきことは、魂との接触を目的とするマインドの統御の発達、その結果としての低位サイキック能力の統御とそれに並行する行為能力の開発。

話がずれたが(私でなく、DK大師)、このスートラのテーマでもある「形態への嫌悪」については、

「形態や形態をまとうことそれ自体は悪ではない。・・・もはや三界での経験を必要とせず、人生の学校において必要な教訓を学び終えた人間にとっては、形態と再生誕は悪にな(る)・・・」(p210)

ということらしい。


41 浄化によって、静かな生気、集中、器官の征服、そして真我を見る能力も生まれる。
(さらに、サットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。)
(そして、〔清浄から〕サットワの浄化・心の喜び・一転集中・感官の制御・おのれ(プルシャ)を見る適合性が〔生じる〕。)

もうひとつ、浄化について。

ヤマ(訓戒)とニヤマ(規範)は、三界に関わる教え。
それは、低位の四つ組と呼ばれる低位の四重の自己に関わるものである。

ひとつ前のスートラで四つの浄化が出てきたが、この四つ組はそれに対応する。
このスートラの文章は、この四つの浄化の結果を指している。

1.器官の征服・・肉体
2.静かな生気・・情緒体
3.集中・・低位マインドつまりメンタル体
4.真我を見る能力 ・これらの鞘の三つの状態の相当的な結果

1の器官の征服は、エーテル体の浄化、つまり、エーテル体の磁力的な純粋さや精製によって、「感覚」、つまり五感の統御を意味している。

2の静かな生気は、アストラル体の浄化の結果であり、アストラル体の穏やかな静寂によって、ブッディ性質を反映できるようになるという。

3の集中は、メンタル体の浄化の結果であり、一点に集中する能力である。マインドはもはやあちこちをさまようことはなくなり、行為の印象付けを甘受するようになる。

4の真我を見る能力は、先の三つの結果が人生に感じられるようになったとき、おとずれるのだそうだが、突如として魂の性質が感じられるあるクライマックスに近づく、とのこと。真実性を悟る、という。


42 満足の結果として、至福が達成される。
(知足によって、無上の喜びが得られる。)
(満足(サントーシャ)から無常の楽を得。)

それはそうね。至福な状態って、満たされている感があるように思う。
だから、『魂の光』に「このスートラに関して言うべきことはほとんどない・・」とある。

でも、DK大師は指摘する。

「すべての苦痛、不快、不幸の基礎にあるのは反抗であり、オカルティストの観点からみると、反抗は問題をかき回して増大させるだけであり、抵抗は、それが何であれ、悪を助長させるだけである。」(p213)

ん~、普通に読んでもわからなくもない。

「自らの運命を受け入れることを学んだ人間は無駄な後悔に時間を浪費することはなく、全エネルギーを自らのダルマつまり義務的な仕事を完全に成就することに向ける。」(p213)

そうくるか。
無駄な後悔。エネルギーの浪費。
確かに。
例えば、「感情」。
感情に振り回されると、必ずエネルギーは消耗する。
消耗する割には、大抵、いや、100%、ほとんど建設的な結果にならない。

なのになんで感情に振り回されるんだ???

抵抗せず、受け入れれば、エネルギーは浪費されず、エナジェティックに先に進める・・・。
そう簡単にいけばよいのだけどね。


43 燃えるような熱誠とあらゆる不純物の除去によって、肉体能力と感覚は完全なものになる。
(苦行によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。)
(タパスによって不浄が消滅するゆえ、身体と感覚の成就が〔生ず〕。)

燃えるような熱誠と浄化が、この歩みを完成へと向かわせるという。

どうやら熱誠の火が、障害になっているものを焼き尽くすらしい。それによって、7つのセンターが活性化され、閉ざされていた十の肉体の開口部が開き(風=神の息が通るらしい)、物質界との接触媒介である五感が活性化する。

そして、肉体能力と感覚は完全なものになる、ということらしい。

浄化には、火と風が必要みたい。


44 霊的な読解によって、魂(神聖な唯一なる者)と接触するようになる。
(霊的な書物を研究することによって、自らの望む神霊との霊交が得られる。)
(学誦(スワーディヤーヤ)から、お気に入りの神と融合。)

直訳すると「象徴を読むことによって魂との接触が生じる」となるとのこと。

象徴・・だんだん分かってきましたね~。
象徴はね、その本質とか真理とかを覆っているもの。つまり、形態。
この形態は、実は、神聖な概念が目に見える形で顕現したもの。

だから、形態を通して、その内に隠されている聖なるアイディアに触れることができる、と言っているのだ。

形態そのものに惑わされがちだけど、その形態こそ、真理、魂に触れる道具でもあるのだ。


45 イシュヴァラへの献身を通じて、瞑想の目標(サマーディ)が達成される。
(神にすべてを任せることによって、サマーディは達成される。)
(三昧成就は自在神祈念から。)

「瞑想の目標は、聖なる内的自己に接触し、その接触を通して、その自己とすべての自己、そして全我との統一を、ただ理論的にではなく自然界における事実として認識する能力を得ることである。」(p217)

「これは、「サマーディ」と呼ばれる状態が達成されたときに起こる。」(p217)

この時、意識は、低位脳意識から魂の意識へと移行する、という。

で、魂は、ありのままの物事をヴィジョンとして見て、リアリティーに接触、「神を知る」。

さらに!
ヴィジョンとして捉え知ったものを魂が、マインドを経由して脳に伝達する。こうして、その知識は、脳の一部になり物質界で活用できる、のだそうだ。

この瞑想過程は、もちろん困難極まるのであるが、

「イシュヴァラへの献身つまり神への真の愛があるときだけ、人間は訓練、浄化、厳しい実践ということの困難な道を歩むことができるのである。」(p219)





# by phytobalance | 2018-11-08 23:23 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ27~34

前回は、知覚者、ある意味、そうなることが私たちのゴールでもあるのだけど、その境地とか、その位置づけの説明があって、そこへ到達するのを妨げているものは「アヴィディヤ(無知)」であるとし、アヴィディアに終止符を打ち、ゴールに到達するのに必要なことは「識別」である、という話であった。

今回は、そのゴールに到達するまでの知識・智慧の種類・段階の説明から始まり、いよいよ八支則に入る!

スートラ見てみまーす。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』
(表の中では『インテグラル・ヨーガ』『インテグラル』、伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』『図説』とします。)


27 得られる知識(イルミネーション)には七種類あり、それは徐々に獲得される。
(最終段階の智は、七重である。【人は(一)もっと知りたいという願望、(二)何かを遠ざけておきたいという願望、(三)何か得たいという願望、(四)何かをしたいという願望、(五)悲しみ、(六)恐れ、(七)惑わし、の七つが終熄するのを体験する。】)

『インテグラルヨーガ』『図説ヨーガ・スートラ』では7段階とし、『魂の光』では7種類と言っておきながら、「それは徐々に獲得される」のだから、やっぱり段階なんだな。なんて紛らわしい。

しかし、『魂の光』では、さらに、その7つは、「思考原理の七つの変異」という言葉も使っている。

出ました!「変異」。
つまり、いずれ克服すべきこと、と言っているわけだな。
だんだんDK大師の言葉遣いが読めてきた!

その7つ見てみましょっ。
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28 ヨガの方法をしっかりと実践し、不純性を克服したとき、完全なイルミネーションへと至る啓発が生じる。
(ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める。)

ヨガの方法とは、八支則(アシュタンガ)のこと。
やっと出てきたね。

それにしても、不純性とか、不純とか。
無明もそうだけど、よっぽど私たち、ダメダメな感じ。

何故、不純か。
『図説ヨーガ・スートラ』では、
「おのれの本質が「清浄なるプルシャ」たることを知らずして、「プラクリティに属する心の活動であると誤認」しているからだ。」(p190)と言う。
そして、それが、「一切が苦」の理由。

あっ、プルシャとプラクリティのこと、このブログで書いてなかったかも。

サンキャ哲学の基本概念なのだけど、プルシャは、物質要素が全くなく、意識や理性を離れた「純粋な精神原理」とされる。一方、プラクリティは「物質原理」とされ、現象世界を作り出すものであり、「私は○○である」という認識や、「私の○○」という所有感、感情などを生み出しているもの。プルシャは、それらを観照しているだけ、と捉えられている。

自分がプルシャであると認識できずに、プラクリティによる現象世界によるものであると認識(同一化)していることが、全ての苦の原因であり、だから不純なのである。

『魂の光』では、行うべきこととして、

1.合一をひき起こすための正しい法則(八支則)の実践
⇒そうすれば、リアリティとリアリティでないものを識別できるようになる

2.三体すべての不純性を根絶するための三重の低位人間の訓練
⇒そうすれば、霊に関するものの見極めが生じる

これが人間が送る生活の一部になったとき、以下の最後の二つの段階が上から下へとひき起こされる、そうだ。

1.啓発:頭部内の光がすべてのものを照らす炎となる。
(地道な実践、瞑想、熱心な奉仕による)

2.イルミネーション:頭部内の光の輝きは着実に明るくなっていく。


29 ヨガの八つの方法とは、訓戒(ヤマ)、規範(ニヤマ)、姿勢(アサナ)、生命フォースの正しい統御(プラーナヤマ)、抽出(プラティヤハラ)、集中(ダラーナ)、瞑想(ディヤーナ)、觀照(サマーディ)である。
(以下がヨーガの八支則である。一、ヤマ【禁戒】、二、ニヤマ【勧戒】、三、アーサナ【坐法】、四、プラーナヤーマ【調気】、五、プラティアーハーラー【制感】、六、ダーラナー【集中】、七、ディアーナ【瞑想】、八、サマーディ【三昧】)

はい、八支則!
やっと、やっと!!
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「これらの方法がいずれかの界層においていずれか一つの体で達成すべきものではなく、三体すべてにおいて同時にその活動と実践をおこなわなければならない・・・そのようにして、三重の低位人間全体が肉体、アストラル体、メンタル体に関連した方法を実践することになる。」(p189)


30 無害であること、すべての存在に対して真実であること、盗まないこと、不節制をしないこと、貪欲にならないこと、これらがヤマつまり五つの訓戒である。
(ヤマ〔禁戒〕は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アスティヤ)、禁欲(プラフマチャーリヤ)、不貪(アパリグラハ)より成る。)

最初のヤマについて。
ヤマは、行ってはならないこと、と解釈されている。
『魂の光』では「訓戒」と呼ぶ。
それは、5つあるのだが、

「無害であれという最初の訓戒は、実際には他のすべての訓戒をまとめたものである。これらの訓戒は不思議なことに全てを満たすものであり、三つの性質に当てはまる。」(p193)

とし、ヤマの5つを三体の性質との関係性を示している。
秘教らしい。
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31 ヤマ(五つの訓戒)は普遍的な義務であり、人種、場所、時間に関係なく、また非常時においても、守らなければならない。
(これらの大誓戒は普遍的なものであり、階層・場所・時間・環境等によって制約されない。)

ヤマはどんな時でも守りなさい、ということ。

「これらは人間の行為を支配する五つの普遍の法則であり、すべての人の子がそれに従うならば、「すべての存在に平和を」という言葉の完全な意味が理解されるであろう。」(p195)


すべての存在に平和・・・目指したいのだが・・・。


32 内面と外面の浄化、満足、燃えるような熟誠、霊的な読解、イシュヴァラへの献身がニヤマ(五つの規範)である。
(ニヤマ〔勧戒〕は、清浄〔シャウチャー〕・知足〔サントーシャ〕・苦行〔タパス〕【苦痛を受容し、それをひき起こさないこと】・読誦〔スヴァティアーヤ〕【霊的書物の研究】・自在神への祈念〔イーシュヴァラ・プラニダーナ〕【自己放棄】より成る。)

八支則の2つ目、ニヤマについて。
ニヤマは、するべきこと、と解釈されている。

『魂の光』では「規範」と呼び、

「この五つの規範は低位の個我の生活を支配し、人格の基礎を形成するものである。」(p195)

とある。
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しかし、この「規範」、ニヤマの最後の3つ、
*燃えるような熟誠
*霊的な読解
*イシュヴァラへの献身
とは、第二の書のスートラ1の、行動のヨガ(クリアヨガ)の定義ではなかったか!!


33 ヨガに反する想念が生じた時には、それとは反対の想念を養うべきである。
(否定的想念によって撹乱された時は、反対のもの【肯定的想念】が念想されるべきである。それがプラティパクシャ・バーヴァナである。)

このスートラに述べられている基本的な概念は以下の通りとのこと。

1. 人は自らが考える通りのものになる。
2. 想念には二種類ある。形態形成、限定、物質界での表現へ向かうものと、魂との合一につながるもの。
3. 前者は、一体化の過程を妨げるヨガにとって有害なものと認識すべき。
4. これらとは反対の想念を育てなければならない。妨げになるものとは正反対なものなので、何かは容易にわかる。
5. ヨガの役に立ち、真我との合一へと導く想念の育成の三つの過程:
  a. 古い想念とは反対の新しい想念を突き止め、考察する
  b. その想念を顕現させるために想像力を活用する
  c. 結果を明確に心象化する

これがエネルギーを生み出す、と言う。

「エーテル体が新しい想念の流れによって活性化され、エネルギーが与えられ、ある変容と再調整が起こり、それがやがて物質界の人間の活動に完全な変化をもたらす・・・この絶え間ない育成が三重の低位人間の完全な変容をひき起こし、・・・真の霊的人間だけが肉体という媒体を通して表現されるようになる。」
(p200)

最後のところが意味不明??

皆が進化した時の話??


34 ヨガに反する想念とは、有害さ、虚偽、盗み、不節制、貪欲である。自分自身で犯したものであれ、犯すように強いられたものであれ、賛成しただけであれ、貪欲や怒りや惑わし(無知)から生じたものであれ、少しだけ、中くらい、あるいは多く行われたものであれ、同じことである。それらは常に極めて大きな苦痛と無知を生み出す。そのため、それとは反対の想念を育てなければならないのである。
(暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、そしてそれらが貪欲・怒り・迷妄〔貪・・痴〕のいずれによって煽られたものであっても、またそれらが温和・中位・過激のいずれの度合いによってなされようとも、それらは無知に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。)

ヤマ(訓戒)の5つは、「ヨガ(つまり合一)に反する想念」に関係している。
訓戒を守れば、その反対の想念が生じるのだ!

a. 有害さに代わって無害さ
b. 虚偽に代わって真実
c. 盗みに代わって盗まないこと
d. 不節制に代わって自制
e. 貪欲や強欲に代わって満足

「・・・言い訳も残されておらず、訓戒を犯すと、それがわずかなものであっても大きなものであっても、同じように結果を生むという真理を肝に銘ずることになる。「反する想念」は必ず結果を生み、その結果は苦痛と、無知つまり惑わしの二つである。」(p201)

はっ、はいぃぃぃぃぃ・・・
こわ~い。


秘教徒が常に三界に関連付けて考える三つの言葉。

1.マーヤ・イリュージョン:知らぬ間に永劫にわたって同一化してしまう形態
2.惑わし:「私は形態である」と自らを言わしめる誤った同一化の過程
3.無知(アウディア):誤った同一化の結果であり、また、それをひき起こす原因


「自己は形態をまとい、イリュージョンの世界で惑わされる。そしてまた、「ヨガに反する想念」を故意に抱くたびに、自己はますます深くイリュージョンの世界に沈み込み、無知のベールに包まれる。「想像力のおもり」を自己の真の性質の側に乗せ、非自己の世界から顔をそらすたびに、イリュージョンは減り、惑わしは弱くなり、徐々に知識が無知にとって代わる。」(p202)


イリュージョン、惑わし、無知。

頭ではわかった。

「想像力のおもり」は、イリュージョンに打ち勝てるのか。


ヤマ、ニヤマの実践あるのみ・・・かぁ・・






# by phytobalance | 2018-10-26 21:41 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ19~26

前回は、カルマの話のあと、物質の特質であるグナ、さらに、そのグナの活動こそが「苦痛」を生み出すこと、そして、知覚者と知覚されるものについての話と続いた。

引き続き、グナと知覚する者と知覚されるものの話が続く。

では、スートラ見てみましょ。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


19 グナ(つまり、物質の特質)の区分は四種類である。つまり、特異的なもの、特異的ではないもの、触れることのできないものである。
(グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。)

グナとは、すべての物質に備わる3つの特質である。と前回説明されたのだけど、ここでは、さらに、それらは「想念質料」だという。
そう、秘教では、物質も想念形態のひとつなんでね。

1 サットヴァ質料 リズム、平衡、調和
2 ラジャス質料 機動性、活動性
3 タマス質料 惰性、安定性

で、この3つのグナがさらに四つ分けられると言うのだ。

サンスクリット語、伊藤武著『図説ヨーガスートラ』『インテグラルヨーガ』による四つの区分の名称も書いてみた。

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「・・ここで形態の大いなるイリュージョンについて述べている。真の人間は長い人生周期を通してそれと同一化することで悲しみや苦しみを味わうが、そこから彼は最終的には解放されなければならない。」(p166)

では、その解放されなければならないイリュージョンをもたらす形態特質の4つの区分のそれぞれの性質を見てみましょ。

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20 見る者は純粋な知識(グノーシス)である。純粋ではあるが、提示されたアイディアをマインドという媒体を通して見る。
(見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現われ方をする。)

「このスートラはこの書の鍵になる詩句の一つであり、ヨガの科学全体の手掛かりを与えるものである。」(p170)

とのことだ。

このスートラに出てくる言葉は、次のように説明されている。

1 見る者:結果の世界、つまり、イリュージョンという大いなるマーヤを眺め考察する者のこと。

2 提示されたアイディア:三界において観る者の前を通過するすべての形態。何らかの種類の具体化された想念。想念形態。

「提示されたアイディア」は、5種類あるという。
a 日常の物質界において蝕知できる客観的な形態
b 気分、感情、欲求
c メンタル界に群がる極めて多様な想念形態
(これらを通して、見る者は非自己についての知識を得る)
d 自分で創造できるようになる想念形態
(マインドという道具を統御することを学び終え、イリュージョンと霊の世界を構成するリアリティーとを識別できるようになった後に)
e 霊的生命の世界、霊的知識の領域、真の意味での神の王国によって提示されるアイディア

そう、これらは、aから、物質界、アストラル界、メンタル界、ブッディ界、アートマ界に対応する!

「オカルティストが行うべきことは、何らかの原因がもたらす結果でしかない形態を扱うことではなく、あらゆる形態の背後にあるフォースに働きかけることである。この努力の方法は段階的にしか発達しない。」(p171)

3 マインド:「提示されたアイディア」、つまり、想念形態を知覚するために見える者が用いる道具。

マインドの3つの目的
a マインドを通して、見る者が原因の領域、霊的な領域を見る
b マインドを使って、原因の世界を知性の観点から解釈できるようにする
c マインドを正しく用いることによって、見る者が魂が見て知ったものを肉体脳に伝達できるようにする


うん。だんだんわかってきたね。
今の私たちに見えるもの、知るものは全て、マインドという道具を使って知覚しているので、その本質が見えない。つまり、イリュージョン。そのものを生み出している原因、背後にあるものを見る、とは、究極、その純粋意識そのものにならないとならない。何かを見る、知る、のではなく、そのものになる。だから、以前から「主観的」と言う言葉を使っているのだ。何かを見ている間は、「客観」である。

そんなところか。


21 万物は魂のために存在する。
(見られるものは、見る者のためにのみ存在する。)

ここでいう魂は、「至高なる存在」の魂と指しているという。そして、人間の魂は、その一部なのだという。つまり、万物は、至高なる存在の魂のために存在する、と読む。

「人間の小さな世界、小さな環境と接触は、彼に経験をもたらし、最終的な解放をひき起こすために存在する。彼はそれらの顕現の原因であり、それらは彼自身の思考力が生み出した結果である。しかし、彼がその一部であるより大きな全体が彼の周囲に、そして彼を通して見られるのである。」(p173)

分かりにくい文章だが、解らなくもない。大宇宙、小宇宙だからね。

前回のスートラ17で、DK大師が、「最高要素が、自分であるという意識をしっかりと保っておいてほしい」と言っていたこととかぶる。

私たちは、観る者(最高要素)であり、「至高なる存在」の魂でもある、、。
今はそう思えないかもしれないけど。


22 ヨガ(つまり合一)を達成した人間にとって客観的な宇宙は存在しない。しかし、いまだ自由ではない人々にとっては存在する。
(それ【=見られるもの】は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在しつづけている。)

でてきましたね。
到達すれば(どこに?^^;)、客観的なものはなく、主観になる。
でも、到達してなければ(自由でなければ)、世界は、宇宙は、客観的な対象なのである。

「私たちの観察するものはすべて思考質料の変異であり、神であれ人であれ、思考者が自分自身の世界を創造するという認識を前提にしている。」(p174)

創造する、ということは、客観的対象物を創造しているのだ。


「ヨガの科学によって、マインドを支配し、メンタル質料つまり想念物質を完全に支配する力を得たとき、大部分の人を三界の囚われの身にしている形態の支配からその人は解放される。」(p174)

これを目指す。

「ヨガの科学の目的は、人間にこの解放の方法を明らかにし、どのようにすれば自分を自由にできるかを示すことである。」(p175)

だいたい分かってきましたね~。

で、第二の書では、主観を得るためのリアリティーとの合一、イリュージョンの消散の方法論として、八つの方法が示されているのだが、それが「八支則」。


23 魂がマインドとつながり、次にマインドが知覚するものとつながることで、知覚されるものの性質と知覚者の性質についての理解が生じる。
(所有する者【プルシャ】と所有されるもの【プラクリティ】の結合が、それら両者が各自の本性と力を把握する原因である。)

スートラ20で示された通り、魂(見る者)が、マインドという道具を使って、知覚するもの(提示されたアイディア)を知覚する、のだが、これらを識別し、関連している、「つながり」がある、ということを認識することで、見る者と知覚されるものの性質を理解できる、と言っているのである。

これは、私たちが最初に養わなければならない「識別力」だという。

なぜか。
それは、何度も出てきたように、私たちは、自分を、道具であるマインドや、知覚するもの(提示されたアイディア、イリュージョン)と同一化しているからである。

同一化しているのではなく、それぞれが別なものであることを知り、その性質を認識しなくてはならない。

識別は最終的に次の三つにつながるという。

1 霊と物質の違いを理解する
2 父なる霊と母なる物質の合一によって生み出された子である魂の性質を理解する
3 魂が自分自身を形態からなる現象界とではなく、霊的様相と同一化し始めることにつながる発達。


24 このつながりを引き起こす原因は無知つまりアヴィディアである。これは克服されなければならない。
(この結合の原因は、無知〔無明〕である。)

「魂の真の性質に無知であること、自分自身の性質と能力を発見したいという衝動があることが、魂が様々な知覚器官や、それら知覚器官が知覚して魂の意識に内にもたらすものと同一化する原因である。」(p178)

昔、どこかで読んだことがある。
その時は「魂」ではなく、「神」が主語だったのだけど、「神」は、自分を知るために人々を使わし、様々な経験をさせるのだと。

それは、ここでいう「衝動」であり、避けがたいことなのだが、いつしか、自分を知るための道具や対象と同一化してしまっている。
本来の自分を忘れた「無知」がそうさせる、と言っているのだろう。

「現象界との同一化と外へと向かう知覚器官の使用は、真の人間が無知の殿堂と呼ばれるところで過ごす期間に行われるものである。」(p178)


25 知覚されたものとのつながりを絶つことによって無知に終止符が打たれる時、これが大いなる解放である。
(この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。)

魂(見る者)は、イリュージョン(マーヤ)の中に沈みこんでいる、と言われる。
自分自身の想念形態や想念が作り出したものに閉じ込められ、三界にあるそれらのものの中にも閉じ込められ、自分自身を現象界の一部と見なしているのだそうだ。

「経験と識別を通して、自分自身とそれらの形態を区別できるようになったとき、解放過程が進行し、大いなる放棄でそれはやがて頂点に達し、そのとき完全に三界から解放される。」(p178)


26 識別を完全に維持することによって、束縛の状態は克服される。
(途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。)

識別とは、自然の本質的な二重性についての認識に基づくものである、と言う。
なぜなら、自然は、二極つまり霊と物質の合一によって生まれる結果だからである。

まず、識別を培い、二重性の前提を基礎とし、その理論を実際に試していく努力をすべきである、とのこと。

熱誠家は日々、形態と生命を、低位顕現の総和と、低位顕現の原因である真の自己を識別するよう努め、次第に、すべてに対して、自己と非自己を識別し、形態の世界の出来事ではなく、霊の出来事として捉えることになれてくると言う。

この区別は、最初は理論的であるが、次に知的になり、後により現実的なものになり、最終的には、全く新しい次元へと入り、形態を存在へと至らしめる主観的なリアリティーも知るようになる。




# by phytobalance | 2018-10-15 17:39 | アリス・ベイリー・AB