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魂の光 第二の書 スートラ19~26

前回は、カルマの話のあと、物質の特質であるグナ、さらに、そのグナの活動こそが「苦痛」を生み出すこと、そして、知覚者と知覚されるものについての話と続いた。

引き続き、グナと知覚する者と知覚されるものの話が続く。

では、スートラ見てみましょ。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


19 グナ(つまり、物質の特質)の区分は四種類である。つまり、特異的なもの、特異的ではないもの、触れることのできないものである。
(グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。)

グナとは、すべての物質に備わる3つの特質である。と前回説明されたのだけど、ここでは、さらに、それらは「想念質料」だという。
そう、秘教では、物質も想念形態のひとつなんでね。

1 サットヴァ質料 リズム、平衡、調和
2 ラジャス質料 機動性、活動性
3 タマス質料 惰性、安定性

で、この3つのグナがさらに四つ分けられると言うのだ。

サンスクリット語、伊藤武著『図説ヨーガスートラ』『インテグラルヨーガ』による四つの区分の名称も書いてみた。

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「・・ここで形態の大いなるイリュージョンについて述べている。真の人間は長い人生周期を通してそれと同一化することで悲しみや苦しみを味わうが、そこから彼は最終的には解放されなければならない。」(p166)

では、その解放されなければならないイリュージョンをもたらす形態特質の4つの区分のそれぞれの性質を見てみましょ。

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20 見る者は純粋な知識(グノーシス)である。純粋ではあるが、提示されたアイディアをマインドという媒体を通して見る。
(見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現われ方をする。)

「このスートラはこの書の鍵になる詩句の一つであり、ヨガの科学全体の手掛かりを与えるものである。」(p170)

とのことだ。

このスートラに出てくる言葉は、次のように説明されている。

1 見る者:結果の世界、つまり、イリュージョンという大いなるマーヤを眺め考察する者のこと。

2 提示されたアイディア:三界において観る者の前を通過するすべての形態。何らかの種類の具体化された想念。想念形態。

「提示されたアイディア」は、5種類あるという。
a 日常の物質界において蝕知できる客観的な形態
b 気分、感情、欲求
c メンタル界に群がる極めて多様な想念形態
(これらを通して、見る者は非自己についての知識を得る)
d 自分で創造できるようになる想念形態
(マインドという道具を統御することを学び終え、イリュージョンと霊の世界を構成するリアリティーとを識別できるようになった後に)
e 霊的生命の世界、霊的知識の領域、真の意味での神の王国によって提示されるアイディア

そう、これらは、aから、物質界、アストラル界、メンタル界、ブッディ界、アートマ界に対応する!

「オカルティストが行うべきことは、何らかの原因がもたらす結果でしかない形態を扱うことではなく、あらゆる形態の背後にあるフォースに働きかけることである。この努力の方法は段階的にしか発達しない。」(p171)

3 マインド:「提示されたアイディア」、つまり、想念形態を知覚するために見える者が用いる道具。

マインドの3つの目的
a マインドを通して、見る者が原因の領域、霊的な領域を見る
b マインドを使って、原因の世界を知性の観点から解釈できるようにする
c マインドを正しく用いることによって、見る者が魂が見て知ったものを肉体脳に伝達できるようにする


うん。だんだんわかってきたね。
今の私たちに見えるもの、知るものは全て、マインドという道具を使って知覚しているので、その本質が見えない。つまり、イリュージョン。そのものを生み出している原因、背後にあるものを見る、とは、究極、その純粋意識そのものにならないとならない。何かを見る、知る、のではなく、そのものになる。だから、以前から「主観的」と言う言葉を使っているのだ。何かを見ている間は、「客観」である。

そんなところか。


21 万物は魂のために存在する。
(見られるものは、見る者のためにのみ存在する。)

ここでいう魂は、「至高なる存在」の魂と指しているという。そして、人間の魂は、その一部なのだという。つまり、万物は、至高なる存在の魂のために存在する、と読む。

「人間の小さな世界、小さな環境と接触は、彼に経験をもたらし、最終的な解放をひき起こすために存在する。彼はそれらの顕現の原因であり、それらは彼自身の思考力が生み出した結果である。しかし、彼がその一部であるより大きな全体が彼の周囲に、そして彼を通して見られるのである。」(p173)

分かりにくい文章だが、解らなくもない。大宇宙、小宇宙だからね。

前回のスートラ17で、DK大師が、「最高要素が、自分であるという意識をしっかりと保っておいてほしい」と言っていたこととかぶる。

私たちは、観る者(最高要素)であり、「至高なる存在」の魂でもある、、。
今はそう思えないかもしれないけど。


22 ヨガ(つまり合一)を達成した人間にとって客観的な宇宙は存在しない。しかし、いまだ自由ではない人々にとっては存在する。
(それ【=見られるもの】は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在しつづけている。)

でてきましたね。
到達すれば(どこに?^^;)、客観的なものはなく、主観になる。
でも、到達してなければ(自由でなければ)、世界は、宇宙は、客観的な対象なのである。

「私たちの観察するものはすべて思考質料の変異であり、神であれ人であれ、思考者が自分自身の世界を創造するという認識を前提にしている。」(p174)

創造する、ということは、客観的対象物を創造しているのだ。


「ヨガの科学によって、マインドを支配し、メンタル質料つまり想念物質を完全に支配する力を得たとき、大部分の人を三界の囚われの身にしている形態の支配からその人は解放される。」(p174)

これを目指す。

「ヨガの科学の目的は、人間にこの解放の方法を明らかにし、どのようにすれば自分を自由にできるかを示すことである。」(p175)

だいたい分かってきましたね~。

で、第二の書では、主観を得るためのリアリティーとの合一、イリュージョンの消散の方法論として、八つの方法が示されているのだが、それが「八支則」。


23 魂がマインドとつながり、次にマインドが知覚するものとつながることで、知覚されるものの性質と知覚者の性質についての理解が生じる。
(所有する者【プルシャ】と所有されるもの【プラクリティ】の結合が、それら両者が各自の本性と力を把握する原因である。)

スートラ20で示された通り、魂(見る者)が、マインドという道具を使って、知覚するもの(提示されたアイディア)を知覚する、のだが、これらを識別し、関連している、「つながり」がある、ということを認識することで、見る者と知覚されるものの性質を理解できる、と言っているのである。

これは、私たちが最初に養わなければならない「識別力」だという。

なぜか。
それは、何度も出てきたように、私たちは、自分を、道具であるマインドや、知覚するもの(提示されたアイディア、イリュージョン)と同一化しているからである。

同一化しているのではなく、それぞれが別なものであることを知り、その性質を認識しなくてはならない。

識別は最終的に次の三つにつながるという。

1 霊と物質の違いを理解する
2 父なる霊と母なる物質の合一によって生み出された子である魂の性質を理解する
3 魂が自分自身を形態からなる現象界とではなく、霊的様相と同一化し始めることにつながる発達。


24 このつながりを引き起こす原因は無知つまりアヴィディアである。これは克服されなければならない。
(この結合の原因は、無知〔無明〕である。)

「魂の真の性質に無知であること、自分自身の性質と能力を発見したいという衝動があることが、魂が様々な知覚器官や、それら知覚器官が知覚して魂の意識に内にもたらすものと同一化する原因である。」(p178)

昔、どこかで読んだことがある。
その時は「魂」ではなく、「神」が主語だったのだけど、「神」は、自分を知るために人々を使わし、様々な経験をさせるのだと。

それは、ここでいう「衝動」であり、避けがたいことなのだが、いつしか、自分を知るための道具や対象と同一化してしまっている。
本来の自分を忘れた「無知」がそうさせる、と言っているのだろう。

「現象界との同一化と外へと向かう知覚器官の使用は、真の人間が無知の殿堂と呼ばれるところで過ごす期間に行われるものである。」(p178)


25 知覚されたものとのつながりを絶つことによって無知に終止符が打たれる時、これが大いなる解放である。
(この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。)

魂(見る者)は、イリュージョン(マーヤ)の中に沈みこんでいる、と言われる。
自分自身の想念形態や想念が作り出したものに閉じ込められ、三界にあるそれらのものの中にも閉じ込められ、自分自身を現象界の一部と見なしているのだそうだ。

「経験と識別を通して、自分自身とそれらの形態を区別できるようになったとき、解放過程が進行し、大いなる放棄でそれはやがて頂点に達し、そのとき完全に三界から解放される。」(p178)


26 識別を完全に維持することによって、束縛の状態は克服される。
(途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。)

識別とは、自然の本質的な二重性についての認識に基づくものである、と言う。
なぜなら、自然は、二極つまり霊と物質の合一によって生まれる結果だからである。

まず、識別を培い、二重性の前提を基礎とし、その理論を実際に試していく努力をすべきである、とのこと。

熱誠家は日々、形態と生命を、低位顕現の総和と、低位顕現の原因である真の自己を識別するよう努め、次第に、すべてに対して、自己と非自己を識別し、形態の世界の出来事ではなく、霊の出来事として捉えることになれてくると言う。

この区別は、最初は理論的であるが、次に知的になり、後により現実的なものになり、最終的には、全く新しい次元へと入り、形態を存在へと至らしめる主観的なリアリティーも知るようになる。




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# by phytobalance | 2018-10-15 17:39 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ10~18

前回は、「妨げ」を生み出す困難についての解説で終わった。

今回は、そこから、カルマのお話へと入っていく。

では、スートラ行きます。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


10 この五つの妨げを精妙な意味で知ったとき、それとは反対のメンタル的な姿勢をとることで、それらは克服できる。
(これらの障害〔煩悩〕が微妙な状態にあるときは、始源の原因【=自我】に還元することによって破壊することができる。)

「精妙な意味で知ったとき」とは、「内なる人間が認識したとき」の意味だそうだ。

第一の書にも出てきたけど、精妙(subtle)なものは、粗雑(gross)なものと対比される。
精妙なものは、「印象」で理解されるもの、粗雑なものは「マインド」で理解されるもの、と解釈してよいと思われるが。

それにしても、『インテグラルヨーガ』では、「微妙」と訳がついている。subtleの訳であれば間違えではないけど、精妙とはイメージが違うなぁ。

克服は、障害の性質を(1)認識し、(2)メンタル界から働きかける、ことから始めよ、と言う。
(ここでは、「障害」という言葉を使っている。妨げと同じなのか?)

思考の道具を支配し、その道具の使い方を学ぶことで、妨げをそれとは反対の流れによって相殺できるのだとしている。

「妨げそれ自体は、間違った思考習慣と思考原理の誤用が引き起こす結果である。それらが「障害を生む形態」を生み出す種子であることを精妙な意味で知ったとき、解放をもたらす方法を作動させることにつながる正しい思考習慣によってそれらを潜伏段階で絶滅できるようになる。」(p150)


11 それらの活動は、瞑想の過程によって消滅させることができる。
(それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。)

「私たちが行うことの多くは自動的であり、長く続けられた情緒的メンタル的な習慣の結果である。本能的に、太古からの実践と触知できる形態の世界への従属によって、物質界での私たちの活動は五つの妨げに支配されている。」(p152)

であるから、スートラ10の「それとは反対のメンタル的姿勢」とは、メンタル的瞑想と一点集中した思考を指しており、それによって、肉体の活動を統御するのである。

潜在する種子(5つの妨げ)への対処へは、一点集中した思考を持って、また、外的な活動の抑制は、思考者、マインド、肉体脳という三つの様相を取り入れる瞑想を持って、行うのである。

この瞑想については、第三の書で述べられている、とのこと。


12 カルマはそれ自体、この五つの妨げに起因し、この生涯か後の生涯で、実を結ばなければならない。
(カルマ【行為とその反作用】〔業〕の子宮の根は、これらの障害の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現生】および見えざる生【来世】における諸経験をひき起こす。)

「物質界の人間がこれらの妨げに従属し支配されている限り、人は必然的な結果を生む活動を行い続け、輪廻転生の車輪に縛り付けられ、形態をまとう運命にある。」(p153)

つまり、これがカルマ。

「この五つの妨げが低位のパーソナリティーつまり低位人間のすべての活動を生み出す原因であるということをよく覚えておく必要がある。彼の行動すべてがこのいずれかに基づくものであり、一般の人が三界で行う活動で、無知とそれに伴う誤った同一化と反応がもたらす結果でないものはない。」(p153)

妨げが克服されると、人間を物質的顕現の車輪に結び付けている三重の鎖が一つ一つ切り落とされていく。

最初は「無知の殿堂」にいて、これが意識的な経験の領域になり、その鎖が足かせであり限定であると感じられると、「より精妙な界層」の「学びの殿堂」に入り、欲求(カーマ)とマインドの間違った使用法によって作られた足かせを切断する。後に、「知恵の殿堂」に入り、解放の過程を早める秘教的な方法が教えられる、とのこと。


いずれにしても、前回のスートラ3~9の五つの妨げが、進化していない人間のすべての活動を生み出す源であり、それがカルマをつくる、ということで、以下、スートラ13~16は、カルマの説明。


13 根(サムスカーラ)が存在する限り、その結果として、誕生、人生、そして苦痛や快楽を生み出す様々な経験が起こる。
(根因が存在するかぎり、その結実すなわち、さまざまな生類への再生と寿命と経験とがある。)

熱誠家は、三界における「自らの客観的存在という現象」を引き起こす「原因」に注目しなければならない、とある。

「客観的存在」というのは、ここでは、本質、つまり、魂と離れた状態を意味しており、私たちが克服すべき状態を指している。

その第一の原因は、エゴそのものであり、第二の原因が、三界における感覚的な接触への反応を発達させるようとするエゴの根本的な衝動である。

熱誠家は、エゴ(魂)との「直接的な接触」を確立することによってのみ、背後にある原因を突き止めることができ、将来の活動のサムスカーラつまり種子に対処し始めることができる。

これらの種子はカーマ・マナス的(部分的にメンタル的で、部分的にアストラル的)であり、

a. 低位マナスつまり具体的マインドは、エーテル体を生み出す基本的な要因
b. カーマつまり欲求は、濃密な肉体的媒体を存在へと呼び寄せる主要な要因

である。

根(種子)が三界のいずれかの外的要因からきりはなされたとき、生命エネルギーはもはや流れ下ることはないのである。

カルマは三種類ある。
1. 潜在的なカルマ:未発達で無活動な種子。現在または近い将来の生涯で実を結ぶ
2. 活発なカルマ:身を結ぶ過程にある種子。現在の生涯で開花すべきもの。
3. 新しいカルマ:この生涯で生み出されつつある種子。将来の生涯の状況を支配するようになるもの。


14 これらの種子(サムスカーラ)は、その元の原因が善であるか悪であるかに応じて、快楽か苦痛を生み出す。
(カルマは、善行に起因するものは楽、悪行に起因するものは苦として結実〔業報〕する。)

善とは、すべての形態に宿るリアリティー、魂を通して明らかになる人間の霊、子を通して顕現する父に関連するもの。形態に束縛されない自己に気づいており、物質の束縛から自由であれば、善の力であり、完全に自由であれば、至福をひき起こす。

悪とは、形態、媒体、物質に関連するものであり、自らの顕現体との子との関係に関するもの。形態に閉じ込められ盲目にされているならば、悪の力であり、苦痛をひき起こす。


15 イルミネーションを受けた人には(三界)のすべての存在がグナの活動によって生まれる苦痛と見なされる。グナの活動には三種類あり、様々な結果、心配、潜在意識的な印象を生む。
(得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相剋‐これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。)

三つのグナは、すべての形態に生来備わっているもので、物質自体の特質である。

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苦痛とは、これらの形態活動の産物であり、物質と霊という相反する対をなすものの間にある固有の差異がもたらす結果なのである。

苦痛は、過去と現在と未来を網羅する包括的なものである。
1.結果:過去の活動によって、誤りの調整という形で表現されるカルマの解消、間違いの代償の支払いによって引き起こされる苦痛。
2.心配:現在に関するもので、「懸念」とも訳される。悪に苦しむのではないかという恐怖心と、奉仕に失敗するのではないかという恐怖心による苦痛。
3.潜在意識的な印象:未来に関係し、死と苦悩と窮乏の予感に関する苦痛。


16 これから起こる苦痛は避けることができる
(未来の苦は、回避することができる。)

1. これから起こる特定の種類の「不幸」は人間のエネルギーを正しく調整することでさけることができる。マインドの姿勢を変えることで、苦痛に満ちた反応はもはや起こりえなくなり、欲求を変性することによってかつての「苦痛」は起こりえなくなる。

2. 苦痛を生み出す結果を生むような原因を始動させないように現在を生きる。

従って、ヨギの生活では、
1.無執着を実践しようという固い決意
2.低位性質のしっかりとした訓練
という二重の訓練が行われる。

「過去のものを解消できるのは今だけである。苦痛、悲しみ、惨めさを次々にひき起こすタイプのカルマはその自然な成り行きに任せなければならない。現在のカルマ、つまりエゴが現在の生涯で消散させようと計画している結果の凝結にも、魂の解放においてその役割を果たさなければならない。」(p160)

ん、執着を捨ててヨギ的になるまで、苦痛は仕方ない、ということだ。⁼_⁼


17 知覚者と知覚されるものが一つの同じものであるというイリュージョンが(苦痛を生み出す結果の)原因である。これは避けなければならない。
(その、避けうる苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られる者【プラクリティ、自然】の結合である。)

はい、復習。知覚者は魂(霊的人間)、知覚されるものは、三界の形態、その現象。

「あらゆる苦痛と悲しみは、霊的人間が三界の客観的な形態やそれらの形態が活動する現象領域と自らを同一化させることによって引き起こされる。」(p161)

もうだいたい分かってきましたねん♪

「感覚の王国から自分自身を引き離し、自分自身が「見て、触れ、聞くことができるものではないもの」であることを知ったとき、彼はあらゆる形態限定から自由になり、聖なる知覚者、演技者として超然としていることができるようになる。」(p161)

はい、これもほぼ繰り返し。分かりますね♪♪

そして、さらに!!

「彼は特定の目的を達成するために自分が欲したときには形態を用いるが、それを自分自身と見なすように仕向ける惑わしには動かされない。」(p161)

道具だからね、使う時は使うけど、それと同一化はしない。
そんな惑わしに動かされてはいけないのである・・が、私たち、常に惑わされてますねぇ~。

DK大師は、熱誠家にとって、今はすべてである三界における三重性の最高要素が、自分であるという意識をしっかりと保っておいてほしい、とおっしゃっておりますぅ。

また、第1様相、第2様相、第3様相なのだけど、つまり、私たちは常に、この第1様相なのであることを知りなさい、という意味。

知覚者 知覚 知覚されるもの
思考者 思考 想念形態
知る者 知識 知識の領域
見る者 視覚 見られるもの
観察者 観察 観察されるもの
観る者 視力 光景

「知覚手段が六つの感覚、つまり聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚、マインドであり、この六つを超越し、それが何のために存在するのかをしらなければならないということを覚えておくべきである。知覚手段は大いなるマーヤつまりイリュージョンの世界を明らかにする。」(p162)

は~い。

「ラージャ・ヨガの大きな目的は、思考者を思考原理の変異から解放して、想念イリュージョンの大きな世界に溶け込んだり純粋に現象的なものと同一化したりすることのないようにすることである。」(p162)

うん。


18 知覚されるものには、サットヴァ、ラジャス、タマス(リズム、機動性、惰性)という三つの特質がある。それは元素と感覚器官で構成されている。これらを活用することで経験と最終的な解放が得られる。
(見られるものは、照明(プラカーシャ)、活動(クリヤー)、惰性(ステイツテイ)というグナの三つの性向を備え、元素〔五大〕と感覚器官からなっているが、その目的とするところは、プルシャに経験と解放〔解脱〕を与えることである。)

「このスートラは、簡潔な数語で、質料の性質、その構成と目的と理由が要約されているため、この書の中で最も重要なスートラの一つである。」(p163)

わぁ、そうなんだ~。(そこまで、とは思わんかったなぁ・・・)

「それぞれの言葉を考察するのに長い時間をかけてもよいものであり、「特質」「元素」「感覚」「進化」「解放」といった言葉は人間の成長に関係する全要素を言い表している。」(p163)

この五つは、人間が最初に転生した瞬間から、進化完了の全期間を網羅するものなんだって。

では行きま~す。

最初:タマス(惰性)が特徴。
・形態があまりに重く粗雑なため、周囲の環境に気づき、多くの激しい接触が起きる。
・地、水、火、風が形態を築く役割を果たす。
・最初に五感が確立する。

次:ラジャス(活動性)が確立。
・第六感覚つまりマインドも発達し始まる。
・自らを取り巻く全てのものの中に、自分自身の中にあるのと同じ特質と元素を知覚する。
・知識は急速に拡大する。
・知覚者としての自分自身と形態として知覚するもの、その存在する世界との違いに気づく。

その次:サットヴァ(リズム)状態になる
・第六感覚がますます支配的になる。
・真の人間がやがてそれを統御する。
・自分自身の中に調和を生み出し、周囲のすべてのものとも調和する。
・権限はリズムあるものになり、偉大なる全体と調和する。
・光景を見下ろす。
・現象界での活動に用いる形態を正しく統御する。
・あらゆる活動を偉大なる計画と調和させるように気をつける。


「このようになったとき、彼は全体の一部でありながらも、形態、元素、感覚の世界による支配から自由であり、解放されている。彼がそれを使うのであって、もはやそれに使われることはない。」(p164)


あら、また到達した気分。

目的に向かって、やるべきことを最初から一つ一つご指導してくれるのかと思いきや、また、一気に駆け登ってしまった!





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# by phytobalance | 2018-09-23 06:15 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第二の書 スートラ1~9

第二の書 合一へのステップ、サーダナ・パタ(実修部門)に入る。

第一の書は、心(チッタ)の停止という目的のための理論編。
それに対して、第二の書、第三の書は、その目的を成し遂げるためにどのようにすればよいか、という実践編。
なので、第一の書で、究極の到達点までの話があったのだけれど、第二の書では、何をすべきかを、最初の段階から説明が始まる。

(第一の書までブログ書いて、すっかり目的に到達した気分になっていた^^;)


では、スートラ行きまーす。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


1 魂との合一を引き起こす行動のヨガとは、燃えるような熱誠、霊的な読解、そしてイシュヴァラへの献身である。
(浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身をゆだねることが実行のヨーガである。)

ここでいう、行動のヨガ(実行のヨーガ)とは、クリアヨーガを指す。
クリアとは、「カルマ」、つまり「行い」を意味する言葉。

で、このスートラ1では、クリアヨーガなんぞや、を言っている。
お馴染み「3つ」で説明している。
クラスで配布された比較のうち、サッチダーナンダ著『インテグラルヨーガ』と伊藤武著『図説ヨーガスートラ』で、この「3つ」のクリアヨーガの説明を見てみる。

燃えるような熱誠苦痛を受け入れるタパス:身体・断食
霊的な読解霊的な書物の研究スワーディヤーヤ:口・音(マントラ)
イシュヴァラへの献身至高の存在に身をゆだねるイーシュヴァラプラニダーナ:意思・自在身への瞑想

伊藤武著『図説ヨーガスートラ』の3つは、仏教用語である、身口意(シンクイ)つまり、三業=身業、口業、意業、つまり、身・口・心による種々の行為に対応する手段、と位置付けている。

『魂の光』では、様々なヨガについての解説がなされている。

1.ラージャヨガ:マインド・意志のヨガ
  格別。すべてのヨガのうち王者の科学。マインドの科学。
2.バクティ・ヨガ:ハートつまり献身家のヨガ
3.カルマ・ヨガ:行動のヨガ

これらのヨガの説明をまとめると以下の表のようになる。

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「今は三体のうち最高位の体が完全な発達をとげなければならない。ラージャヨガが意図するのはそれであり、それがパタンジャリの著作の目的である。」(p133)

アーリア人種がこれを完全に発達させると、物質界で肉体の神の能力を開花させ、意識的に用いるようになるらしい。
これが、全体的な進化の過程に起用することになるのだそうだ。

これを達成するために、先のクリアヨガの3つの行いが必要であるという。それぞれに対応する3つの問いに正しく答えるよう努めることで、道を歩むために自身を整えることになるとのこと。

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2 この三つが目指すものは、魂のヴィジョンを生じさせて、障害を取り除くことである。
(それらは、障害(煩悩)を最小にして、サマーディを達成させる。)

これは、普通に理解できるスートラだな、と思いきや、『魂の光』では、以下の通り説明している。

「「魂のヴィジョン」という言葉が障害の除去という考えの前にきていることに、ここで注目すべきである。これは、まだ自分自身を完成していない人々でさえヴィジョンを得ることが可能であることを示している。」(p138)

そういう意味なの。ふ~ん。


で、スートラ2では、「障害(obstructions)」と言い、次のスートラ3では「妨げ(hindrances)」という言葉が使われている。
そして、さらに、「混乱(distraction)」という言葉もあるのだそうだ。それは、

1.障害:物質界
2.妨げ:アストラル界 ー 魂のヴィジョンの妨げ
3.混乱:マインドを静めて魂のヴィジョンを達成しようとする人を襲うもの

と特に関係している、とのこと。

第一の書のスートラ30では、「障害」という言葉が使われていた。その克服法はスートラ31に書かれており、スートラ36では、その克服法は、7つのチャクラの活性と関係している、と記載されていた。確かに物質界っぽいと言えばそうだが。

この第二の書のスートラ2は、物質界的な「障害」を主に指しており、次のスートラ3では、アストラル界的な「妨げ」、ということなのか。
しかし、次のスートラを見るとそんなに単純でもなさそうだ。

それこそ「混乱」する。


3 妨げを生み出す困難には次のものがある。アヴィディヤ(無知)、パーソナリティーの感覚、欲求、憎しみ、そして執着の感覚である。
(無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、五つの障害(煩悩)である)

このうち、

「アヴィディア(無知)」、「パーソナリティーの感覚」は、物質界での統合と関係があり、
「欲求」は、アストラル体・感情に関するもの、
「憎しみ」と「執着」は、メンタル体を活気づけるエゴイズムの感覚の産物、
であろう、としている。

「三重のパーソナリティーは種子を蒔くための畑であり、三界における個人生活という土壌でこれらの種子が繁殖し、生長して真の人間にとっての障害や妨げになる。」(p138)

「これらの種子を破壊しなければならず、その破壊によって次の三つのことが生じる。
1.カルマの清算
2.解放の達成
3.魂のヴィジョンの完成」(p138-139)

はい。

以下、この妨げを生み出す5つのものについての解説!
*アヴィディヤ(無知):スートラ4、5
*パーソナリティーの感覚:スートラ6
*欲求:スートラ7
*憎しみ:スートラ8
*執着の感覚:スートラ9


4 アヴィディヤ(無知)は、他のすべての障害が潜在的なものであろうが、除去つまり克服の過程にあろうが、完全に活動中であろうが、それらの原因になるものである。
(無知(無明)は、それに続く他の諸障害 -それは、(一)休眠状態であったり、(二)弱体化していたり、(三)遮断されていたり、(四)維持されていたりするが‐の田地である。)

アヴィディヤ(無知)が、他の障害の原因であるのだが、それは、「形態それ自体の限定」に起因するという。

「聖なる生命形態はすべて、霊的エネルギーの断片を覆い隠している。それが霊的存在の点にもたらす結果は必然的に遮蔽、遮断、制限であり、存在そのものとの接触と形態内の霊的単位の奮闘だけが最終的な解放を引き起こすことができる。」(p140)

形態が魂(霊的エネルギー)とのつながりを隠しちゃっている、わけね。


5 アヴィディアとは、永続せず苦痛に満ちたものや非自己を、永遠でかつ純粋で至福に満ちたものや真我と混同している状態である。
(無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすことである。)

アヴィディア(無知)とは、リアリティーとリアリティーでないもの、死と不死、光と闇を識別できていない状態だそうだ。
もう、形態をまとう以上、当然の結果だそうだ。
なので、アヴィディアが三界を支配しているという。

形態を、三界を克服せねば、ヴィディア(知識)に到達できないのである!


6 パーソナリティーの感覚は、知る者が知識の道具と同一化した結果として起こる。
(我想(アスミター)とは、いわば、見るもの【プルシャ】の力とみる器官【身心】の力との同一視です。)

第一の書でもでてきたように、知る者とは、魂、霊的人間。
それが使える道具がいろいろあるのだが、その道具とは、

1. 三界における接触媒体
 a. 肉体 b. 情緒体(アストラル体)c. メンタル体
2. 物質界においては、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚の五感覚
3.マインド、つまり、第六感覚。

これらと自分を同一化しているのがパーソナリティーの感覚、というわけだ。

いつも私たちは、道具と同一化してしまっているから、自分と思っているものは、本当の私ではない、ということ。

ちなみにマインドには、三つの使用法:

①一般的な使用法:情報を知る者へ伝える 
 → この使用法が主にパーソナリティーの感覚を生み出す。
②魂の考え、願い、医師を脳に伝達する:ヨガ八支則の最初5つによってもたらされる
 → 物質界における個我にリアリティーの認識をもたらし、非自己との同一感は弱まっていく
③魂そのものの領域に接触する:八支則最後の3つによって生じる
 → 魂の領域を知ることができる

があるが、大多数の人間は、まだ最初の使用法しか用いていない。


7 欲求とは快楽をもたらす対象への執着である。
(執着とは、快楽体験との同一視から来るものである。)

「欲求とは霊が形態生命に向かう外交的な傾向を表す一般的な用語である。」(p146)

そして、

快楽をもたらす・・・対象には、原始的な人類の野蛮な状態から弟子道の進歩した段階に至るまで、人が抱くすべての執着が含まれる。」(p146)

それは、物質的、情緒的なことから、全範囲の感覚的経験、例えば、「家族に対して感じる愛」、「美しい絵画に対する芸術家の評価」、「キリストやグルに対する信奉者の崇拝」まで、全て含まれる。

厳しいねぇ~。


8 憎しみとは感覚の対象に対する反感である。
(憎悪とは、苦体験との同一視から来るものである。)

憎しみは形態に集中した結果であり、スートラ7の裏返しだという。

「すべての形態が(多かれ少なかれ)明らかにしているものを忘れることによって起こるものである。」(p146)

つまり、形態が道具であることを忘れ、同一化し、執着することによって起こる、わけだ。

憎しみは、
・拒絶感であり、そう感じる対象からの撤退へ導く
従って、
・同胞愛の逆で、統一を否定し、障壁を築く原因となる。
・結晶化と破壊と死へとつながる原因を作り出す。
つまり、
・統合ではなく拒絶のために用いられるエネルギーであり、進化の法則に反するもの。

これは、パーソナリティーの感覚と無知がもたらす結果である、と言う。

「憎しみや反感はすべての人間の心の中に多少なりとも存在する・・」(p147)

そうですねぇ~~。

「愛と統一感によってそれが完全に克服されたときに初めて、死と危険と恐怖心は人類家族の知覚範囲から追放されるであろう。」(p147)


9 感覚的な存在であろうとする強烈な欲求は執着である。これはすべての形態に生来備わっており、自ずと永続し、非常に賢い人々にさえあるものである。
(生命欲は、【過去の経験から来る】独特の潜勢力から発し、賢人にさえもある。)

「この種の執着がすべての顕現の基本的な原因である。」(p147)

つまり、執着があるからこそ、私たちはこのように生を受けている、と言っているのだ。

「この種の執着には、自動的に自己再生し自己永続する能力がある。」(p147)

生きたいとか、さらに、進化のために転生すること自体、執着なのだ。
だから、
「非常に賢い人々でさえそれに支配される」(p147)


これ、どう越える???

「執着を克服し、欲求を根絶するためにできることと言えば、どの特定の界層においてであれ、相反する対をなすもののバランスをとる力を発達させることだけであり、そうすることで、もはやその界層の形態に支配されなくなり、撤退が可能になる。」(p148)


でね、これは単に象徴的な言い方で、これは、エネルギー的な「引力と斥力の法則」で説明でき、それがオカルト的(秘教)作用であるという。

まず、バランスを取らねばならない善と悪の相対性についての説明から。

「生きようという意志、つまり顕現しようという意志は聖なる生命衝動の一部であり、したがって正しいものである。しかし、特定の界層において、また特定の形態グループを通して存在し顕現しようという意志は、その権限領域が窮屈になり、特定の形態が経験と接触のための媒体を提供するという目的を果たし終え、もはやそれ以上の教訓を与えることができず、悪がはいりこんできたときには、正しいものではなくなる。悪に向かう傾向とは、内に住む者が卒業してしまった形態と実践法の使用に逆戻りしようとする傾向でしかないからである。」(p148)

なので、三界の形態の執着を超越し、これらの界層の形態へのすべての切望を根絶し終えているのがアデプトたちというわけ。
生命つまり霊が撤退したとき、形態は死滅するのだ。

で、これをエネルギー的に説明すると、

「高位我の思考がそれ自身の界層に集中しているとき、エネルギーは三界の物質に向けて出ていかなくなり、形態を形成し形態に執着することはできなくなる。」(p149)

ということになる。

エネルギーは思考に従う」というオカルトの公理の通りである。


「霊にとって形態への執着と形態の引力は退化への偉大なる衝動である。形態への斥力とその結果としての形態の分解は進化への偉大なる刺激である。」(p149)

引力と斥力の法則が、進化と退化の背景にある。

全てエネルギー~♪

難しいね。




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# by phytobalance | 2018-09-22 08:45 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ41 ~ 51

いよいよ第一の書、最終回!
スートラ41から51は、さらに上位のサマーディについての説明となる。

サマーディに関しては、スートラ21までで、サマーディの初期の段階、有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)と無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)の解説がなされていた。

クラスで配布された補足資料『解訳ヨーガ・スートラ』(佐保田鶴治著)の解釈を元に、無想三昧までのサマーディの段階を列記し、対応する『魂の光』『インテグラル・ヨーガ』他からの説明を加えてみた。数字はスートラ番号。
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『解訳ヨーガ・スートラ』とかね、補足資料が、適宜配布されるところが、このクラスが貴重なとこ。


その後のスートラでは、別の道(カメの道)として、イーシュヴァラへの献身についての説明が、スートラ23から29あたりまで続いた。イーシュヴァラの言葉、AUMが登場し、この意味を熟考すると道が開ける、、とあった。

前回、スートラ30~40までは、その開けた道にたどるまでに除去されるべく障害についての解説だった。

そして、今回、第一の書の最後の11のスートラで、一気に最終到達地点であるサマーディまで駆け上がるのだ!!!

先にどんな感じか表にしてみるね。
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では、スートラ行きまーす。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


41 ヴリッティ(マインド質料の変異)を完全に統御した者に、認識したものとの同一化つまり類似の状態がやがて生じる。水晶がその中に映っているものの色を帯びるように、知る者、知識、知識の領域が一つになる。
(自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディである。)

このスートラで説明している状態は、前回の最後のスートラ40に至った状態。

このスートラにある「ヴリッティ(マインドの質料の変異)」とは、スートラ4、5あたりで説明があった。ヴリッティは、マインドだったり、想念形態を指しており、このマインドの変異と同一化していることが問題であった。

ここでの状態は、マインドを統御することによって、認識したものそのものと同一化する、、と言う。

認識したものとの同一化とは、知る者、知識、知識領域(第一様相、第二様相、第三様相に相当)が、一つになる、ということだが、

知覚している知る者は、知識の全域を自らの意識に持つことになり、知識となっている質料の原子と一つとなる。
その原子の最も微小な宇宙は、大宇宙の性質と同じであるため、知識領域とも一つになるのである。

そういう状態だそうだ。

これは、常に、認識、集中、観照というプロセスを経て至る。

これは、アサムプラジュニータ・サマーディ、無想三昧の境地である。

で、これが終わりではない。まだまだ上があるのだ!


42 知覚者が言葉とアイディア(つまり意味)と対象を融合したとき、これは弁別的な理性をもつメンタル的な状態と呼ばれる。
(名称と形態、およびそれに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。)

アサムプラジュニータ・サマーディで、認識したものと同一化したものの、まだ、言葉、アイディア(意味)、対象というものの種子が残っている。

なので、ここからの瞑想は、その種子をクリアにしていく過程、なのだろう。
まだ種子のある段階なので、有種子三昧・サヴィージャ・サマーディと呼ばれるが、これもまた、4段階あり、このスートラ42から、スートラ46まで説明されている、

その最初の段階が、このスートラで言っているサヴィタルカ・サマーディ(サマパティ)(有尋定)という。

『インテグラル・ヨーガ』では、サヴィタルカ・サマーディと書いてあるが、『解訳ヨーガ・スートラ』によると、これは、サヴィタルカ・サマパティ、とすべきなのだそうだ。

『魂の光』のこのスートラにある「言葉」と「アイディア」と「対象」だが、

第一様相:アイディア - 客観的な形態の背後にある原因
第二様相:言葉 - 形態を生み出す音
第三様相:対象 - アイディアを表現するための音によって生み出さ形態

と説明されている。

そして、知識に達するには、
① 外的な形態を認識、
② その形態な内的な状態へ移行。つまり、形態を生み出した音=言葉を発見、
③ この①と②の原因、背後にある聖なる思考に触れる。
というプロセスを経ると言う。

私たちは、瞑想において、まず、この三重性を「区別」し、その構成要素である原子の意識に入り、さらに、その「声の軍隊」と呼ばれる(言葉、音)エネルギーの意識に入り、最終的にその言葉を発した「偉大なる生命」の意識にも接触できるようになるのだ。


43 弁別的な理性を伴わない知覚が達成されるのは、もはや記憶には支配されず、言葉と対象を超越し、アイディアだけが存在するときである。
(記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の知が一人輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーティすなわち思慮を伴わないサマーディである。)

次の段階は、先の言葉と対象を超越して、アイディアだけが存在している状態らしい。

『インテグラル・ヨーガ』では、これが、ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋定)とする。
これも、『解訳ヨーガ・スートラ』によると、ニルヴィタルカ・サマパティ。

『魂の光』では、これを「種子のない瞑想」の状態だと、なぜか書いている。
種子のない瞑想、無種子三昧は、もっと後の(最終)段階を指すので、ここでは、「対象のない瞑想」と捉えた方がよいらしい。

実際、その後に、「マインドの推論的な使用とその具体化する能力から解放された状態」であるとしており、「もはや対象について考察することはなく、その対象を表しその力を表現する言葉を聞くことものない。」(p111)とあるからね。

対象(形態)の背後にあるアイディアだけを認識し、アイディアと原因の領域へ入るという、形態や思考から解放された純粋な観照ができる状態。

記憶(過去の経験など)からくる一切のフィルターがなく、「ありのまま」が「ありのまま」ずどん、と入ってくるのだ。


44 この集中の二つの過程(マインドの弁別的な活動を伴うものと伴わないもの)は精妙なものにも適用できる。
(同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】〔有伺三昧〕とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】〔無伺三昧〕は説明される。)

「精妙なもの」とは、形態の背後にあるもの。形態とはより粗雑な要素で成り立っているのだが、その粗雑な形態の中には、鋭敏な知覚と研ぎ澄まされた感覚によってしか接触できない精妙な形態があるのである。
これに接触するために、弁別的なマインドはなくてもよいのである。

精妙なものに対しても、マインドの弁別的な活動を伴う、サヴィチャーラ・サマーディ(サマパティ)と、伴わなわないニルヴィヴィチャーラ・サマーディ(サマパティ)。

『インテグラル・ヨーガ』では、それぞれ〔有伺三昧〕、〔無伺三昧〕となっているが、上記の表では、佐保田鶴治氏の『解訳ヨーガ・スートラ』による言葉を使った。なぜなら、ここで〔有伺三昧〕としてしまうと、上記の表にもある通り、サンプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)の第二段階のヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)と同じになってしまうので。


「神の性質である偉大なる「愛」・・・が、外的なものによって覆い隠されている「精妙なもの」を生み出す原因である。」(p112)

さらに、精妙なものの背後(原因)には、神が!愛が!あるーーーーー!


45 粗雑なものは精妙なものになり、精妙なものは斬新的な段階を経て、プラダーナと呼ばれる純粋な霊的存在の状態になる。
(精微さは、集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。)

来ましたねー。
もう対象がないわけ。定義不能。
それが、純粋な霊的存在の状態、プラダーナ、らしい。

全て一体というか?

ちょい、ちょい、ちょい。
確か、全てエネルギーだったよね。
そのエネルギーそのものになる、ということなんだねぇ~。


三界の全てにおいて、通過しなければならない段階として
1. 粗雑なもの…形態、合理的な蝕知できる鞘
2. 精妙なもの…性質もしくは特質、感覚、感覚器官、感じられるもの
がある。

これらすべての背後にバランスのとれた状態、プラダーナがある。
そして、この三つの背後に、絶対的な原理がある。
しかし、人間が知ることのできるのは、この三つだけ。
ここまで。‐‐;


46 これはすべて、種子のある瞑想である。
(以上が、サビージャ・サマーディ【有種子三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的同様に引き戻す可能性が残っている。)

はい。スートラ42~45は、サビージャ・サマーディ、有種子三昧でした。

と、『インテグラル・ヨーガ』の最後の文が怖い。
まだ、終わってない。ここでも簡単に挫折できそうな表記。

人間のマインドは、本来、霊に関するものを理解できるようにはできていない。

「種子のある」瞑想から、次の段階へ進むにつれて、すべての知識が得られるステージに入り、自らが瞑想しているものに接触できるのだ。

「見ているものに知覚者が気づいているどのような瞑想においても、そこにはまだ形態知覚の状態がある。すべての形態と知識領域そのものが視界から消え去り、知る者が自身をありのままに認識しているときにだけ、理想的な、形態のない、種子のない、対象のない瞑想に到達できる」(p115)

「このより高位の瞑想状態は眠りやトランス状態に似ているが、肉体の眠りや霊媒のトランス状態とは正反対のものである。・・そのとき霊的人間は定義を超えた界層において完全な意味で目覚めている・・・」(p115)


47 この超観照的な状態を達成したとき、ヨギはチッタ(マインド・スタッフ)のバランスのとれた静けさによって純粋な霊的認識を得る。
(ニルヴィチャーラ・サマーディが純粋となったとき、至高の自己は輝く)

『魂の光』では、純粋な霊的認識を得るスートラ46の状態を説明しているが、『インテグラル・ヨーガ』では、ニルヴィチャーラ・サマーディが、純粋になった時の状態を説明している。

ニルヴィチャーラ・サマーディは、この後、スートラ51で出てくるので、この2つのスートラの解釈は、微妙に違うような気がしないでもないけど。?

『魂の光』では、このスートラの「アイディア」は、真の意味での「純粋さ」に関するもので、それは、「限定からの自由」を意味する、と解説が続く。

限定からの自由が、純粋さ。
私たちって、あらゆる限定の中で生きてるからね。

限定をつくるマインド・スタッフが完全に静まれば、可能になる・・・完全に静まればね。
そうすれば、自分自身をすべての形態から引き離し、形態のないものと同一化できる。
それは、自らの存在のハートの中心点に到達した、ということでもあるのだそうだ💕

その霊的認識の点からだと、あらゆる生活、仕事、環境は自分には関係のない過ぎゆく見せ物のように見えてくるとのこと。

その状態だからこそ、それらに純粋な霊のサーチライトを当てることができるのだという。


48 彼の知覚は今、誤ることなく正確である(つまり、彼のマインドは真理だけを明らかにする)。
(これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。)

スートラ47の状態が、絶対的な真理意識状態で、知覚は誤ることない。

自らの意識からすべての形態を除去しているからこそ、その背後にあるもの、その形態のアイディア、真理を「正確に誤りなく」知覚できる。


49 この知覚は特に独特なものであり、(証拠、推理、推論を用いて考える)弁別的なマインドには明らかにできないものを明らかにする。
(この特殊な真理認識は、聞いたり、聖典から学んだり、推理したりして得られる知とは、完全に異なっている。)

ここで、普通のマインドや学びからでは得られないものを得る、特殊知覚が備わる。

マインドは、客観的にものごとをとらえる。
でも、それは、純粋にものごとをとらえていることにならない。
真の自己である内なる霊的リアリティと一つになるまで、真実を得ることができない。

真実はそう簡単に知ることはできないのだ。
あっ、そもそも「知る」ものではないのだろう。


50 それは、他のすべての印象に敵対しているか、それを超越しているかである。
(このサマーディによって生ずる印象〔サンスカーラ、行〕は、他のすべての印象を消す。)

おぉ、ここでまた、敵対とか超越とか、怪しい言葉が。
これでは、対象があるではないか!
(あああ、ここでは対象ではなく、印象と言わねばならない。)


51 この知覚状態それ自体も抑制した(つまり、超越した)とき、純粋なサマーディが達成される。
(この印象さえもぬぐいさられるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルヴィージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。)

キタ----------------------!

ここだね。
スートラ47~50は、まだ、サヴィージャ・サマーディ(有種子三昧)を説明していたのだ。
霊的存在な状態で、霊的認識に達しているのだけどね。


それすらも超えなくてはならない。もう、知覚とかでない。知覚すらない。
印象すらないのだ!!!!


ゴー-------ル!

ニルヴィージャ・サマーディ(無種子三昧)。

最終到達点。

お疲れさまでした~。


こうして、スートラ2:

YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH.

にある

CHITTA(チッタ)のVRITTI(ヴリッティ)をNIRODHAH(二ローダ)する、

つまり、
「サイキック性質を征服し、チッタ(マインド)を抑制することによって達成される」
境地に到達するのだ!


スートラ3「これが成し遂げられたとき、よぎは自分自身のありのままの姿を知る」

ありのまま💕



サマーディの段階を7界層と当てはめると、こんな感じかも~、な感じらしい。
秘教のクラスですからね。一応。
仮説ね。仮説ですからね。
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第一の書、完。




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# by phytobalance | 2018-08-24 11:44 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ30 ~ 40

これまでにサマーディの段階や、それとは別な方法での魂とのつながり方を学んだが、スートラ30~40は、サマーディに至るまでの障害を説明している。

ヨーガスートラの秘教的解釈は、随分とこれまでの解釈とかけ離れているように思えるかもしれないけど、意外とそんなにかけ離れているわけではないように思えてくる。その違いは、これまでのいろいろな解釈の違い程度を大きくは超えてはいない。

と、思ってしまうのは、秘教的フィルターが培われているから?

秘教的解釈のせいで、スートラ(の解釈)の構造を理解しなくてはならないのだけど、それを『魂の光』のページを切り張りして並べて、関係している内容を線でつなぐ、、という涙ぐましい努力の上にできた補足資料が配布された。(すご過ぎ)

それをパワポに落としてみた!(パクリ)
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さて、スートラ行きまーす。
(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』


30 魂を認識する上で障害になるのは、肉体的無能、知的惰性、間違った疑問、不注意、怠惰、平静の欠如、誤った知覚、集中を達成する能力の欠如、そして、瞑想的な態度を達成したときにその態度を維持できないことである。
(病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、妾見、不動の境地に至りえない状況、獲得した地歩からの滑落 - これらの心の散動が、その障害である。)

図にもあるように障害が9つもあるから、全部は説明できない・・・
少しだけ抜粋。

障害I  肉体的無能
物質媒体の調整:1.免疫アップ、2.エーテル体強化精製、3.エーテル体の火を集中、4.肉体を魂と整列、を要する。ヨガの八支則の最初の3つ:5つの訓戒(ヤマ)、5つの規範(ニヤマ)、正しい姿勢(アーサナ)を実践して、それに熟達した後に初めて3の調整を安全に行える。

障害II 知的惰性
知的惰性は、メンタル体の無気力状態、解ろうとすることができない「惰性」。行動する前に明晰に思考できない限り、問題の大きさを正しく見定めることはできず、十分な勢いは得られない。コントロールすべきマインドすらちゃんとできあがってないため。

障害III 間違った疑問
低位の知覚に基づくもの。人間がイリュージョンの道具であるメンタル体と同一化していることによって起こる。

障害IV 不注意
一点集中と注目の達成を困難にする移ろいやすいメンタル的な姿勢。

障害V 惰性
知的な認識と内なる熱誠に達するのを妨げる低位人間全体の不精のこと。知っていることと行動の間には何の一致も見られない。

障害VI 平静の欠如
物質的、感覚的なものを求める欲求のこと。どのような種類の形態とも自分自身を同一化せず、常に無執着で超然としており、財産や所有物が課す限定から自由でいるという態度をもつことで、「平静」を培わなければならない。

障害VII 誤った知覚
ものごとを正確に知覚し、ありのままに見ることができないこと。前述6つの障害からの当然の結果。いろいろな視覚のうち、1.肉体の視覚、2.エーテル視力、3.透視力、4.抽象的なヴィジョンの4つは、誤った知覚の原因になり、イリュージョンと誤りを生じさせるだけ。5.純粋な視覚、6.霊的な視覚つまり真の知覚、7.宇宙的な視覚、を研究することによって、自分がなにをしなければならないかを正しく理解できる。

障害VIII 集中を達成する能力の欠如
新しい人間が自らの正徳財産を手にするための方法で、自己訓練や奉仕だけではなく、マインドを焦点化し統御する集中と、魂が接触し知ったものを熟考する安定した過程である二つの段階を含む。

障害IX 瞑想的な態度を維持できないこと
(説明がない!!)


31 苦悩、絶望、肉体の不適切な活動、そして生命の流れの間違った方向付け(統御)は、低位サイキック性質に障害が生じた結果である。
(心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、失態の震え、乱れた呼吸がある。)

低位人間の障害による4つの結果。
1 苦痛:アストラル体に誤って偏極したときに生じる。
2 絶望:メンタル体に生じる自責の念から起こる。
3 肉体の不適切な活動:内的な状態が物質界において、猛烈な活動、解決やアンドを求める激しい追及、平安を求める大麻内遁走としてあらわされる。
4 生命の流れの誤った方向付け:内的混乱によって、エーテル体に生じる。


32 障害とそれに付随するものを克服するためには、何か一つの真理(つまり原理)に対して強烈に意思を適用することが必要である。
(一つの対象に集中して修練をおこなう【あるいは、一つの技術を用いる】ことが、障害とその付随物を防ぐ最良の方法である。)

平安を達成して目標に到達するための七つの道。

障害        克服法
1. 肉体的無能: 健全で穏やかな生活
2. 知的惰性: 生命フォースの統御
3. 間違った疑問:一点に集中した思考
4. 不注意: 瞑想
5. 惰性:   自己訓練
6. 平静の欠如: 正しい分析
7. 誤った知覚: イルミネーション

「障害とその対処方を理論的に理解していても強烈な意思をもって対処しなければあまり役に立たない。継続的にしっかりと忍耐強く意思をマインドを通して機能させるように努力することによって初めて、熱誠家は闇から光へと、死の状態から不死へと移行できるのである。」(p89)

なので、ここで取り上げられているスートラを学ぶのだ!


33 チッタ(マインド・スタッフ)の平安は、同情を抱き、優しくし、ゆるぎない目的を抱き、苦楽やあらゆる陰の善悪に対して平静になることによってもたらされる。
(他の幸福を喜び〔慈〕、不幸を憐れみ〔悲〕、他の祐徳を欣び〔喜〕、不徳を捨てる〔捨〕態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。)

「この体は他のあらゆる客観的な形態へと向かう傾向があり、物質的な対象に容易に引きつけられがちである。・・・エネルギーがまとうすべての物質的な形態からの解放は、客観的な形態に対して平静になろうと努めたときに起こる。」(p91)

スートラにある各語句は以下を指す。
a 同情:同胞への援助
b 優しさ:動物王国に優しく接する
c 揺るぎない目的:物質界での奉仕
d 苦楽や善悪に対する平静

『インテグラル・ヨーガ』では、この4つを仏教の慈悲喜捨に対応させている。

こうして、脳の反応の平安が達せされ、完全な静寂と平穏が訪れる・・・


34 チッタの平安はまたプラーナつまり生命の息を規則正しく保つことによっても生じる。
(あるいはその静澄は、息の制御された排出、または保留によっても保たれる。)

パタンジャリは、プラーナヤマ(呼吸の科学、つまりプラーナ・エネルギーの科学)を「チッタの平安」に達するための「一つの方法として挙げていることに注目して欲しい。・・プラーナヤマとは、相互に関連し結びついている次の三つの過程を指す用語である。」(p92)

1 リズムある生き方の科学
2 呼吸の科学
3 センターの科学

「平安に達するこの方法が、穏やかで健全な生活とその結果である健康な肉体を前提としていることを心にとめておくことは重要である。」(p93)

健全な肉体に健全な精神が宿る??

そして、呼吸で平安に向かうのだ!


35 マインドは、感覚知覚に関係する様々な形の集中によって安定させることができる。
(あるいは、微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす。)

このスートラを理解する鍵は、「無執着」。

「熱誠家は、次第にますます傍観者の立場をとるようになる。その結果として、彼の意識は感覚媒体の領域から「肉体に住む者」の領域へとゆっくりと移行していく。」(p94)

「肉体に住む者」とは、魂のこと。

感覚の支配者、感覚知覚の分析者という立場をとるようになると、メンタル的に集中するようになるらしい。


36 光と輝きについて瞑想することで霊の知識に到達でき、かくして平安が達成される。
(あるいは、永遠の私服に満ちた、内なる無常の光に集中するとによって。)

「ここで先に示したそれぞれの方法が特定のセンターに関係していることを心に留めておくべきである。・・・達成の手段は七つあり、それは七つのセンターに関係していると推測できる。」(p96)

と、いうことで、スートラ32のそれぞれの克服法に対応するセンターが記されている。しかし、これについては、以下、右側に書かれていることを除いて、その手順の詳細を述べることはできないとしている。

方法1 スートラ33太陽叢センター  各センターを蓮華と見なすことができる
方法2 スートラ34脊柱基底センター 蓮華は振動する花弁で形成されている
方法3 スートラ35眉間のセンター 各蓮華は特定の枚数の花弁、がく、中心で構成
方法4 スートラ36ヘッドセンター 各センターは聖惑星ロゴス顕現体に対応
方法5 スートラ37仙骨センター 各センターはAUMの使用で発達
方法6 スートラ38喉センター  太陽の持つ特徴はセンターの特徴
方法7 スートラ39ハートセンター

光と輝きを瞑想し、光とそれを用いる能力を通して霊の知識が得られる。熱誠家は「十二の輻を持つ車輪の内側にある光の点」、つまり、「ハート・チャクラ」の中心に住んでいるというブラフマに気づき、それを熟考したとき、目標に到達するために、どのような道をたどらなければならないかが明らかかになる、というのだ。


37 低位性質が精製され、もはや耽溺することがなくなったとき、チッタは安定し、イリュージョンから解放される。
(あるいは、感覚対象への執着を難れた聖者の心に集中することによって。)

この言葉を正確に翻訳することは困難とのことで、このスートラは意訳だそうだ。

知覚器官と感覚による接触を真の人間が打ち消し続けることで、「激情から自由になる」という意味らしい。

すべての対象に対する情熱と欲求は克服され、低位の感情性質から解放されると、マインドスタッフは、そのような感覚的な反応の影響を受けなくなるため、それに対する知的安定と集中力が生まれる。

情熱と欲求・・・の克服かぁ・・・なかなかねぇ。


38 平安(チッタの安定)は、夢がもたらす知識について瞑想することで得られる。
(あるいは、夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。)

夢は、スートラ10ででてきたように、眠っている時の物質界の夢、感覚的な知覚に没頭している時のアストラ体で経験される夢、メンタル体の夢である想像力などがあるが、

「三界の三つの界層における思考者は、無知で野蛮な状態から平均的な啓発された人間の状態に至るまで、この三つの夢の状態にある。これはさらに高位の夢意識の状態へとつながるものである。」(p101)

無知で野蛮な状態から・・・だって。秘教は度々きつい単語を使うね・・

想像力を真に活用するためには、高度な統御と高度なメンタル能力が必要。そのときに「サマーティの状態」と呼ばれるものが最終的に起こる。

自身の低位人間全体を眠らせているこの状態で「神自身の夢」の領域に移行でき、そこで神が創造した「イメージ」についての知識を知ることができるのだそうだ。


39 平安はまた、ハートにとって最も大切なものに集中することによっても得られる。
(あるいは、なんでも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。)

低位の欲求に関係してもたらされる平安は一時的なものであるため、自分のハートにとって最も大切なものが一時的なものかどうかを調べ、確かめなければならない、という。


40 かくして彼の認識は無限に小さいものから無限に大きなものへと、アニュ(原子つまり微小な点)からアートマ(霊)へと拡大し、彼の知識は完成される。
(集中の修得は次第に拡大して、根源的原子から最も巨大なものにまで及ぶ。)

偉大なる対応の法則のもとに、人が自分自身についての知識を得るにつれて、神についての知識にも到達するということは、秘教における公理である、という。

この知識には、五つの様相が含まれる。
1 形態 自らの体とすべての鞘の性質を理解する。
2 形態の構成要素 すべての形態は原子、つまり「エネルギーの点」からできている。
3 フォース 形態を構成している原子エネルギーの集合について理解する。
4 グループ 波動とフォース表現が似ている類似した形態を発見する。
⇒これにより、立場に気づき、何をすべきかを知る。
5 エネルギー すべての形態に関する知識を得て、すべてのフォースを統御し、
すべてのグループの原動力になる。

この五つの認識を通して、人はものごとに対する支配を達成する。
認識するためには以下の要素が必要。
1熱誠
2学習と研究
3実験
4同一化
5認識

そうすれば、自分自身を無限に小さいものの意識と同一化し、その中に入ることができる。

最も小さいものの意識を包含することは、太陽系という最も大きなものを包含するのと同じくらい遠い道程。
しかし、すべての意識領域において、支配する方法は同じ。

つまり、

マインドを完全に支配する力を生み出す完全に集中した瞑想。



ん・・・ま、様々な障害を、上記な感じで克服し、完全に集中した瞑想ができれば、、ね。



次回は、いよいよ第一の書、最終回!!




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# by phytobalance | 2018-08-09 23:32 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ23~29

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今回は、スートラ23~29までを学んだ。

前回のスートラ22は、
「・・・真の霊的意識の達成にはもう一つの道がある。」
で終わっている。

ここで、そのもう一つの道、つまり、アトランティス人種的な方法、カメの道についての説明になる。

ウサギの道で行けるのであれば、よいのだが、私たちの多くは、まだまだアストラル的なコントロールができない。
そんな私たちのために、ひとつ前の時代の方法が説かれているのである。


以下、スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。


23 イシュヴァラへの強烈な献身によって、イシュヴァラの知識が得られる。
(神【イーシュヴァラ】への完全な帰依によっても【サマーディは達成される。】)

「イシュヴァラはすべての神の子らのハートの中に住む神であり、ハートの洞窟の中に見つけることができる。純粋な愛と献身的な奉仕によって彼に達することができ、そのときイシュヴァラがハートの十二枚の蓮華に座し、「蓮華の宝珠」をその手に握っているのを見るであろう。」(p62)

とのことだ。

前回学んだサマーディへの道をすんなりと歩めない者たちは、一生懸命献身的な奉仕をすべし、、。
そうすれば、ハートの中でイシュヴァラ、つまり、「魂」を見る、つまり、つながる、ことができる!!


24 このイシュヴァラは、カルマと欲求から自由な限定を受けない魂である。
(イーシュヴァラとは、いかなる苦悩〔煩悩〕、行為〔業〕、行為の結果〔業報〕、欲望の内的印象〔業遺存〕によっても染められていない無上のプルシャである。)

これは、霊的人間(魂)のありのままの実像と、三界との関係を示しているという。
それは、低位性質、つまり、三界のフォースやエネルギーには支配されない魂の状態である。

このスートラは、高位我、つまり、魂の性質を示しているのだが、個々の解説は次の通り。

1.限定を受けない。
「低位の四つ組に「束縛され、閉じ込められ、幽閉され」てはいない。・・・四つの低位の鞘 - 濃密な肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体 - はもはや彼の牢獄ではなく、彼が意のままに用いたり立ち去ったりできる道具に過ぎない。」(p63) 

四つ組、または三界からの限定を受けない、との意。

2.カルマから自由な。
カルマから自由であるということは、カルマを精算し、「主観的な認識を通して意識的に原因の世界に」入ることだという。結果は三界のものである。一般の人々は結果に関わり、その中をやみくもに突き進む。しかし、高位我は、「常に法則に従って働き、どのような結果が得られるかを完全に知った上ですべてのエネルギーを表現する。そのため、彼の(その)行為に悪い結果を生むものは何もなく、どのようなカルマも生み出さない。」(p64)のである。

なるほどねぇ。結果というものは、三界のドメイン。
三界からの束縛を受けない、ということは、カルマを生み出す「結果」からも自由ということか。

3.欲求から自由な。
「三界のどの階層の感覚知覚に関するものも、もはや彼をひきつけ魅了することはない。彼の意識は内へと、そして上に向けられており、下と外には向けられていない。彼は中心に位置し、周辺のものが彼にひきつけることはない。」(p64)

ひきつけられるものがないなら、欲求もなさそう・・・

『インテグラル・ヨーガ』の解説は、以下の通り。

「<彼>にはいかなる欲望もない、したがって行為がなく、行為の結果を刈り取る必要もない、というのである。」(p81)

こちらの方がシンプルで分かりやすいかも。


25 イシュヴァラつまりグルデヴァの中で、すべての知識の胚珠が無限へと拡大する。
(彼の中には、一切知の種子が完全に備わっている。)

『インテグラル・ヨーガ』からみてみる。

「<彼>とは、すべを知るものである。<彼>は、知そのものである。<宇宙の知>が、<至上の魂>すなわち<プルシャ>と呼ばれるのである。」(p82)

わかるようでわからない。

『魂の光』のスートラは分かりにくいが、解説の方は、少し複雑だが、意外とわかりやすいかもしれない。

「大宇宙的な意味において、神はすべての支配者であり、すべての知識の総和であり、すべての意識状態の総和である。彼は万物の魂であり、人間の魂と同じく物質原子の魂もまた彼の無限なる認識の一部である。人間の魂は潜在的にそれと同じであり、意識が媒体や器官と同化するのをやめるや否や、すべての知識の胚種が拡大し始める。」(p64-65)

秘教の基本的な概念のひとつである大宇宙と小宇宙。

今ここにあること、起きていることは、今ここより小さな次元(発達段階)でも大きな次元でも似たように起きるのである。「すべての知識の胚種」は、どの発達段階でも存在し、各段階において人間の魂は、万物の魂と同じなのある。

「それぞれの段階で人間は支配者であるが、獲得した地点を越えた別の可能な拡大が常に明らかになる。」(p65)

だから無限に拡大していく、というのである。


26 時間的条件に束縛されないイシュヴァラ(グルデヴァ)は、太古の主方の教師である。
(彼は、時間によって制限されないがゆえに、太古の師たちにとってさえも、師である。)

どちらも同じことを言っているね、このスートラは。

「人間が体験するそれぞれの意識拡大は、同じような拡大の経験をまだしていない人々にとっての大師にする。・・・・・すべてが学ぶものであり、すべてが教えるものである。違いは認識の度合いだけである。」(p68)

これはわかるね。


27 イシュヴァラの言葉はアウム(オウム)である。これはプラナヴァである。
(イーシュヴァラをことばで表したものが、神秘音オームである。
【注:<オーム>は、<神>の名であると同時に、形である。】)

さぁ、ここで聖音であるアウム(AUM)が登場!

まず『インテグラル・ヨーガ』の解釈をまとめるとこんな感じ。

名前がないとわからないので、もともと名前などない「至上のプルシャ」に名称をつけたかったが、「イシュヴァラ」としても、神と言っても、有限なものしか表せない。そこで、無限のイデアとそのヴァイブレーションを表すため、すべての音と音節を含む「Mmmmm 」にした。でも、それではわかりにくので、OMになったという。

なるほどね。

『魂の光』にはこうある。

アウムとは、AUMであり、「意識的生命そのものであるプラナヴァの音であり、すべての形態に吹き込まれる息である。・・・・正しく表現された時、魂を介して父つまり霊を顕現させる。」(p70)

しかし、こう続く。

「この秘密の中の秘密、時代を超えた偉大なる神秘に関する論文を書くことはできない。できるのはアウムに関するいくつかの事実を集めて、対照することでだけであり、それぞれの直感に応じて概念を拡大させ、与えられる短い説明の意義をつかむよう学ぶ人々に委ねることだけである。」(p70)

その後、この聖語について、10項目書かれているが最後の2つを引用する。

「9 大師つまり内なる神はまさに言葉つまりアウムであり、(すべての存在のハートに見られる)この大師にとって、「初めに言があった。言は神とともにあった(このようにして二重性が生じる)・言は神であった」(ヨハネによる福音書・第1章1節)という言葉は真実である。これを使うことによって、人間は次のことを認識するに至る。

a 自分自身の本質的な神性。
b 形態形成過程の目的。
c これらの形態の構成と性質。
d 意識の本質、つまり聖なる自己(霊)とその反対極にある形態との関係。

この関係の進化的成就を、私たちは意識と呼び、この意識の本質的な特性は愛である。」(p71)

a~dは、解る。
そして、これらの関係は、進化とともに成就し、それは、その進化に伴う本当の意味での意識、、という言っているのは、なんとなく理解できる。
しかし、いきなり、意識の本質的な特性は「愛」と言われてもね。
世の中的にそういわれているから、そうだよね、とは思っても、この説明からは、それが「愛」かは明確でなく、あぁ、そうですか、と言うしかない。

スートラに、「これはプラナヴァである」とある。プラナヴァとは、意識的生命そのもの、らしい。
その本質は、愛、つまり、生命は、愛、ということになる。
ま、よく言われていることではあるが。
秘教では、「意識的」生命が愛そのもの、と言っているのだが。
霊的人間でないと、その本質は愛、とは言えないのかな。

「10 弟子をイニシエーションの扉へと導き、彼のあらゆる試練と過程を最初からずっと見守るグルつまり大師も同様にこの言葉を象徴しており、この偉大なる音を科学的に使用することによって、大師は弟子のセンターに行くつかの刺激と活性化を引き起こし、いくつかの発達を可能にする。」(p71)

まさにマジックワードだ。


28 この言葉を発生することで、そしてその意味を深く熟考することで、道が見いだされる。
(意味を熟慮しつつ、それを反復誦唱するがよい。)

『インテグラル・ヨーガ』では、以下のように解説している。

「マントラを絶えず唱えることによって、心の一部がそれに繋がれる。それはちょうど、命綱を腰に巻き、もう一方の端を外部の杭に固定して、穴の中へ降りていくようなものだ。そうしておけば、何かの危険に出くわしても、ロープをちょっとゆするだけで引き上げてもらうことができる。それと同じで、あなたは心のある部分をマントラによって<神>に繋ぎとめ、同時に他の部分で世俗の営みに励むのだ。」(p95)

『魂の光』は、興味深い解説になっている。

「・・・多くの翻訳者の中で、ヴィヴェーカナンダだけが、このように解釈し、次のように述べている。

「オウムを繰り返し唱え、その意味を瞑想すること(が道である)。」

他の翻訳者たちは最後の句(=が道である)を省いているとのことだが、その意味するところは明らか。

「言葉の発声」という表現もまた文字通りに解釈してはならない。秘教的な「発声」は波動の法則の学習の基づくものであり、意識の鞘つまり覆いの低位の波動を徐々に調整して、意識的な内在者の音色つまり音と一致させていくことである。正確に言えば、言葉は魂つまりエゴがそれ自身の界層で発声し、その波動が魂が宿る媒体である様々な体に結果的に影響を与えるのである。従って、その過程はメンタル的なものであり、 ー 奉仕を伴う瞑想と訓練を通して ー 魂との意識的な一体化を成し遂げた人々だけが実際に行えるものである。この状態を志す熱誠家は、この最初の段階に達成するために、想像力、心象化、瞑想を行う忍耐力という有効な要素を活用しなければならない。熱誠家が受け入れられた弟子になる前に、比較的小さな程度であっても、この段階を達成していなければならないことに留意すべきである。」(p73-84)

まぁね。意味はわかるのだが、純粋な愛と献身的な奉仕の道の話をしていたのではなかったか。
結局、瞑想しなくてはならないのね。

だから、今の時代、瞑想と奉仕が、次のステップへ歩む2大要素、と言われるのだろう。


29 このことから真我(魂)の認識とすべての障害の除去が生じる。
(これを修することにより、すべての障害が消え、同時に内なる自己の知が明け初める。)

『インテグラル・ヨーガ』では、

「あなたは宇宙の力と同調するのだ。あなたは、そういう同調作業によって、その力を自分の中に感じ、その性質をすべて吸収し、宇宙的なヴィジョンを得、自分の限界のすべてを超えて、ついにはその超越的な実在となる ー。」(p98)

と説明している。

『魂の光』では、

「内なる大師を知った時、その支配力がますます感じられるようになり、熱誠家は自らの全低位性質をこの新しい支配者に従属させるようになる。

ここで、すべての障害の最終的な完全な状況が起こるのは、認識の最初のひらめきが起こった後であることを覚えておくべきである。
それは以下のような順序で起こる。

1 魂の知識を求める熱誠。
2 障害の認識、つまり真の知識を阻むものについての理解。
3 これらの障害の性質についての知的な把握。
4 それを除去しようという決意。
5 魂のリアリティーについての突然のひらめきつまりヴィジョン。
6 そのつかの間のヴィジョンを低位回想での経験における匪賊する現実に使用という新たな熱誠と固い決意。
7 クルクシェトラの戦い。これにより、クリシュナ(魂)がアルジュナ(熱誠家)を着実な綱持続的な努力へと駆り立てる。これと同じ考え方が、『旧約聖書』でもエリコの壁を前にしたヨシュアの場合に見られる。」(p75-76)


ということで、次回は、この段階で完全に除去されるという「障害」についての解説スートラが続く。



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# by phytobalance | 2018-07-21 08:27 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ17~22


今回は、なんとサマーディ!について学んだ。

サマーディとは、「三昧」と日本語に訳される、瞑想における深みの境地の状態のことを指す。

わぁ、いきなり、サマーディ~♪♪。

でも、まだでしょう。やることいっぱいあるでしょ、その前に・・・
先に、サマーディを見せて、やる気にさせる戦略か。
それともその逆か。


前回までの話。ビジュアルに復習。数字はスートラ#。

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今回は、スートラ17~22。
以下、スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。


17 対象の意識はその四つの性質への集中によって達成される -調査を通して形態への集中、識別ある寛容を通して特質(つまりグナ)への集中、インスピレーション(つまり私服)を通して目的への集中、同一化を通して魂への集中である。
(サムプラジュニータ・サマーディ【区別ある三昧】〔有想三昧〕には、論証性〔尋〕、反射〔伺〕、歓喜〔楽〕および純粋な我-性〔我想〕が伴う。)

どちらのバージョンもわかりにくい。

『魂の光』がここで言う「集中」は、サマーディを指す。

ここでは、瞑想(サマーディ)の4つの段階があることを説明している。
実は、その上には上があるのだが、ここでは、区別する瞑想とか、分析する瞑想とか言われる、仏教用語では「有想三昧」と言われる最初のステップ(サムプラジュニータ・サマーディ)の4段階を指している。

『魂の光』では、対象の意識、対象についての瞑想、という言い方をしている。つまり、自分と対象物があるのだから、区別ある瞑想、ということになる。
その4段階とは、以下の通り。

1. ヴィルカ・サマーディ:形態への集中、論証性(尋)、目で確認できる物の分析
2. ヴィチャーラ・サマーディ:特質への集中、反射(伺)、感覚や心の分析
3. アーナンダ・サマーディ:目的への集中、歓喜(楽)、心の状態と自分自身の違いの分析
4. アスミタ・サマーディ:魂への集中、我‐性(我想)、自分と自我意識の分析

各ステップにおいて、何を分析しているか、という説明はわかりやすい。これは、『やさしく学ぶYOGA哲学~ヨーガスートラ』(向井田みお著)から。確かにやさしく学べそう。

ここで、神尾仮説登場。
このサムプラジュニータ・サマーディの4段階は、メンタル亜層下位4層ではないか、ということ。

秘教を学んでいるのだからね。常に界層構造と対応して考えねば。


18 思考の一点集中によって外的な活動が静まったとき、さらなるサマーディの段階に到達する。この段階においてチッタは主観的な印象付けにだけ反応する。
(心の作用の完全停止が確固不抜におさめられることによって、後に残るのは印象〔サンスカーラ、行〕のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ、区別なき三昧】〔無想三昧〕である。)

先の4段階を経て、サムプラジュニータ・サマーディに到達することで、

「外部からの印象付けは感覚を経由してマインドに到達する。」(p52)

つまり、物事を「認識」しなくてよく、感覚として入ってくる、解る、というふうになる。という理解でいいかな。

「知覚したものへの反応をマインドに伝達しなくなったとき、二つのことが起こる。

a. 肉体脳が静まる。
b. マインド・スタッフつまりメンタル体、チッタが様々な変異をお紺合わなくなり、肉体脳と同じように静まる。」(p52)

知覚したものへの「反応」はいらないのである。

そして、
「彼にはまだそれが何であるかはわからないが、新しい知識の領域に気づくようになる。」(p52)

この次の知識の領域を、アサムプラジュニャータ・サマーディ、区別なき三昧、無想三昧、と言う。


19 ここで描写したサマーディは現象界の境界超えるものではなく、神々や具体的世界にかかわる人々を超えるものではない。
(単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然〔自性〕に没入した者には、再生がある。)

二つのバージョン、全く関連性が見えない!!

『魂の光』の解釈の意味は、この状態において、メンタル体の変異を鎮め、魂、魂のヴィジョンの範囲、魂の知識を初めて認識したが、まだ、三界に閉じ込められている、ということ。

『インテグラル・ヨーガ』の解釈では、いくらか自然を統御できるようになって、天界にいてのある主の愉楽を享受できても、その後、戻って、修行を続けなければならない、という意味らしい。

と、説明されると、両者、似たようなことを言っていることがわかる。

この程度のレベルは、まだまだ「合一」ではない!!


20 エネルギー、記憶、瞑想、正しい知覚につながる信念を通して、サマーディを成し遂げ、純粋な霊の識別に達するヨギたちもいる。
(その他の者〔ヨーギーたち〕は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。)

ここでは、まだ三界の閉じ込められていながら魂の知識を認識したヨギ(弟子)ではなく、次の段階にいる、
「低位性質全体の統御と編成を完了」(p55)
した弟子のことを述べている。

彼らは、
「法則についての知識を通してー変性され純化されたすべてのセンターを使って働く。彼らは次の能力によって真のサマーティ、つまり、オカルト的な抽出の状態に達する方法を知っている。つまり、ヘッドの千枚の蓮華にエネルギーを引き上げ、・・・ついにはすべてのエネルギーを・・・魂の蓮華の中心に集めて焦点化する能力である。」(p55-56)

この能力は、次の5つの段階によって生み出される。

1. 信念:弟子はまず、魂の認識に達し、次に純粋な霊、絶対者である存在の父に接触する。この歩みには、常にまず、「信念」が必要である、とのこと。
2. エネルギー:正しい活動とフォースの正しい仕様によって目標に近づき、理論は事実になる。
3. 記憶:リアリティーを隠してきたあらゆる形態のエゴの忘却が、真に理解できる状態、つまり、魂が知覚したものを正しく感知する能力につながる。
4. 瞑想:魂が見て脳が感知したもの、魂から発っせられたものは、瞑想によって人生の布に織り込まれなければならない。
5. 正しい知覚:魂の経験、霊つまり父の様相についての知識がアデプトや大師の脳の中身の一部になり始める。


21 強烈に活発な意思を持つ人々はこの状態(霊的意識)速やかに達成する。
(強い熱情をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】は非常にすみやかに来る。

「これは当然である。」(p58)

そうだね。

『インテグラル・ヨーガ』には、このスートラの解説はない。「当然」なのだからだね。


22 意思を行使する人々も様々であり、その行使が強烈な場合と、適度な場合と、軽い場合がある。さらに、真の霊的意識の達成にはもう一つの道がある。
(成功のために要数時間はさらにまた、その修練が温和であるか、注意であるか、非常に熱烈であるかによって、異なる。)

『魂の光』では、
人間が霊的生命の知識と解放に到達する道が二つあるという。

ひとつは、
「意思を用いて自己と非自己を識別し、純粋な霊に到達する方法である。」(p59)
これは、パタンジャリが教えるヨガの道であり、マインドを発達させ、制御するという課題を持つアーリア人種にとっての道である。

もうひとつは、
「強烈な崇拝と完全な献身を通して、熱誠家は霊のリアリティーについての知識に達する。これは多くの人にとって最も抵抗の少ない道である。」(p59)

後者は、アトランティス人種にとっての方法だったのだが、現在の私たちの多くにとっても、歩みやすい道だという。
なぜなら、私たちはまだ、アトランティス人種の課題であるアストラルの制御を完全に為しえてないから。


このスートラは、この前者の方法を用いている人々の3つのグループに分けられる、と言っている。

*非常に強烈に意思を用いて、極めて速やかに結果を達成する者。しかし、アンバランスな発達、性質のハート面の否定、後に修正しなければならない破壊的な行動などの危険が伴う。

*それほど休息には進歩しない、中庸の道の典型である熱誠家たち。着実かつ穏やかに前進し、いかなる種類の行き過ぎもゆるさないため「識別の達人」と呼ばれる。現在の周期においてすすめられるのはこの方法である。

*沈着冷静で粘り強い意志を持ち、着実に進み、脇道に逃れることなく前進し、やがてゴールに到達する穏やかな魂たち。容易には動揺しない根気強さを持つが、進歩は遅い。

最初の人々は、野うさぎ、最後にあげた人々は亀。

だけれども、これらのグループの大多数の人々が、いずれ注意深く相反する対をなすもののバランスをとり、偏った発達を均等にし、それまでの偏った努力を修正し、「一定の歩調で歩み」始める、とのこと。
速度を修正するもの、進歩を早めなければならない人々がでてくる、と言う。

そして、「野うさぎと亀はゴールで出会うのである。」(p61)
のだそうだ。


ウサギでも、カメでも、ゴール全然見えん・・・





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# by phytobalance | 2018-07-05 07:56 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ12~16

『魂の光』の講座4回目は、スートラ12~16を学んだ。

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毎回、5つくらいの文献からのスートラ比較表が準備されている。それぞれのスートラの捉え方がわかるように、その解説がコンパクトにまとめられている。

『魂の光』は、神智学系秘教の概念にもとづいたヨーガスートラ解釈だから、オーソドックスな解釈や、わかりやすくかみ砕いた解釈を合わせて学べるのは、ヨーガスートラ初心者の私にとってはとっても有難いのだ。


それでは、スートラへ。
以下、スートラ赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。


12 内的器官であるマインドのこのような変異は弛みない努力と無執着によって統御すべきである。
(これらの心の作用は、修習と離欲によって死滅される。)

『インテグラル・ヨーガ』では単に「心の作用」としているが、「内的器官であるマインド」は、もちろん『魂の光』での追記であり、秘教独特の解釈である。

さらにこの「内的器官」とは、肉体器官ではなく、
「・・・マインド、様々な永久原子、そして様々な鞘の中のフォース・センターといった活動のセンターを指す。」(p41)

とあり、これらのセンターの放射がもたらす結果が外的な肉体器官だという。
例えば、脳はマインドの外的器官、というように。
ちょっとイメージし難いが。

マインドなり、心の作用なりを統御、または死滅するという「弛みない努力」または「修習」、そして、「無執着」または「離欲」について、以下のスートラが解説する。


まずは、「弛みない努力」「修習」から。


13 弛みない努力とはマインドの変異を抑制しようという不断の努力である。
(これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習である。)

弛みない努力は、絶え間ない実践を要する。一日に何分かだけ、ではなく、常時それに携わらなければならない。

その不断の努力とは、
「霊的人間がマインドの変異つまり揺らぎを抑制するために、そして移ろいやすい低位サイキック性質を統御して自分自身の霊的な性質を十分に表現するために行う不断の努力である。」(p42)

そして、
「このようにしてだけ、霊的人間は日々物質界において魂の生活を送ることができるのである。」(p43)

簡単ではない。
そう簡単に魂とつながれないし、つながって生活などできない、ということだ。


14 獲得すべき対象の価値をしっかりと見定め、その達成に向けて中断することなく忍耐強く努力しつづけることで、マインドの安定(ヴリッティの抑制)が得られる。
(修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、確固な基礎を持つものとなる。)

「魂への強烈な愛、そして魂を知ることに必然的に伴うすべてのものへの強烈な愛があって初めて、熱誠家は着実にゴールへと導かれるのである。」(p43)

なるほど~。
愛。「魂への」愛!!
なんか、新しい認識。
生半可な気持ちでは、魂とつながることなどできない。

「目指す目標 - 魂との合一、その結果としての超魂とすべての魂との合一 - がどのようなものであるかを正しく認識しなければならない。マインドの変異を支配し、その結果としてすべての低位性質を支配できるようにする十分に強力な努力を行う前に、なぜそれを達成したいのかを正しく見極め、獲得すべき結果を極めて熱心に求めなければ(つまり愛さなければ)ならない。」(p43)

大谷翔平選手が浮かぶ。
極めて熱心に求め、中断することなく忍耐強く努力し続けているのだ・・・。

あのレベルで向かわなければ、魂とはつながれない・・・。
世界トップクラスのレベルだ。
これを十分認識しなければならない。

「これを十分に認識した上で、(低位性質を)征服し支配する努力を中断せずに続けるならば、変異の抑制が何を意味するかを意識的にますますはっきりと知る時が訪れるであろう。」(p43)


次は、「無執着」「離欲」について。


15 無執着とは、俗世的もしくは伝統的、この世的もしくはあの世的な、欲求が向けられるすべての対象に対する切望からの自由であるということである。
(見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(無執着)である。)

「無執着(non-attachment)は不渇望(thirstlessness)と言うこともできる。」(p44)

物質存在の象徴も欲求がその特質であるアストラル界の象徴も水。
つまり、水である物質も欲求も渇望しない(thirstlessness:渇きがない状態)、ということだ。

言葉はうまくできているね。

「どのような対象への切望も存在しなくなったとき、また再生誕(これは常に「形態表現」つまり物質的顕現への切望がもたらす結果である)へのどのような欲求もなくなったとき、真の不渇望が達成され、解放された人間は低位三界のすべての形態に背を向け、真の救世主になる。」(p45)

ここで、「無執着」または「離欲」と表現されているのは、原典の「ヴァイラーギャ」。
面白いことに、ヴァイラーギャとは、「色のない」という意味だそうだ。
水でなくて、色。

『インテグラル・ヨーガ』にはこう書かれている。

「どんな欲望でも、心にその欲望独自の色づけをする。あなたがここに色づけをした瞬間に、さざ波が形づくられる-ちょうど、静かな湖に石が投げ込まれると、波が立つように。次から次へとそうした欲望によって心が揺れ動いているときには、心には平安や休息はない。そうして、そういう動きを止まぬ心によって着実な修練をすることはできない。」(p55)

あれ、やっぱり、水が出てきた。:-)


16 特質つまりグナから解放されたとき、この無執着を達成した結果として、霊的人間についての正確な知識が得られる。
(プルシャ【真の自己】の悟得によってグナ【自然の構成要素】に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲である。)

『インテグラル・ヨーガ』では、通常のヴァイラーギャ(離欲)は、
「心が何かを欲してもそれを制御し、心にむかって「否」という。するとそれはとどまる。だが高次のヴァイラーギャでは “執着”を云々することもない。」(p64)
としている。

つまり、制御する、という行為が必要な段階では、まだ至上の離欲には達していないということだ。

『魂の光』では、これを三界の限定からの解放、というふうに表現しているが、さらにその先と言えそうな説明がある。

霊的人間とはモナドのこと。
進化過程の頂点に達すると、三界の限定から魂を解放するだけではなく、魂そのものさえも含むすべての限定から霊的人間を解放する、とある。
目に見える客観的な顕現からの自由、無形態状態が目標である言う。(p48)

霊的人間についての正確な知識、とはこのことか?

さらに、

「グナとは物質の三つの特質であり、大宇宙のエネルギーが質料を動かし活気づけるときに生み出される三つの影響である。三つのグナとは -

1 サットヴァ霊のエネルギー父 リズムつまり調和のとれた波動 モナド
2 ラジャス  魂のエネルギー 子 機動性つまり活動性 エゴ
3 タマス 物質のエネルギー 精霊 惰性 パーソナリティー

この三つは、唯一なる生命を表現する三つの様相それぞれの特質に対応している。」(p45)

お馴染みの三様相♪

「三つのグナすべてを使い、形態の使用を通して完全な経験を獲得し、対象や形態への執着を通して意識と知覚と認識を発達させ、すべての手段を活用し終えたとき、(ロゴスとしての、もしくは人間としての)霊的人間はそれ以上それらを使う必要はなくなる。その結果、グナから自由になり、執着の結果として形態をまとうことはなくなり、今の私たちが推測しも無駄な新しい意識状態へと入るのである。」(p45)

対象や形態への執着も、意識と知覚と認識を発達させるために必要なものである、ということ。

と、聞いて安心するのは、進化してない証拠^^;

すべてを経験し、もう使う必要がなくなった時、霊的人間は形態をまとわずに、意識の次のステージへ行けるのだ。

これが、霊的人間の正確な知識だ。

今の私たちが推測すらできない意識状態へ達しないと、霊的人間の正確な知識などわからない、、
のだろうね。


ふふふ。ここまで学んで、実は、結構すんなり入ってくる。
全く違和感ないのだ。秘教的な解釈は・・・

オーソドックスな理解との違いもしっかり理解せねば。





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# by phytobalance | 2018-05-29 20:32 | アリス・ベイリー・AB