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魂の光 第三の書 スートラ1~8

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いよいよ第三の書!

第三の書は、八支則の最後の3つ、集中(ダラーナ)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)について扱っており、

「マインドの統御とその統御によって生まれる結果」(p243)

について具体的に述べているとのこと。

「最初の十五のスートラでは、マインドの統御とその達成方法が述べられており、残る四十のスートラでは、この統御を達成したのちに起こる結果について述べられている。」(p243)


では、スートラ行きます。
今回は、『図説ヨーガ・スートラ』も見てみた。

(スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』緑色文字は伊藤武著『図説ヨーガ・スートラ』本文では『図説』


1 集中とはチッタ(マインド・スタッフ)を特定の対象に固定することである。これがダラーナである。
(集中とは、心を一つの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。)
(凝念(ダーラナー)は、心の[活動が][ある]処に結びつくこと。)

このスートラの訳は、どれもそんなに違わないように思える。

『図説』では、まず、八支則の最後の3つ、

「凝念→禅定→三昧のプロセスを経て、集中力が最大限に高められ、神通力を可能にする、サンヤマ(という魔法の力(シャクティ))が練り上げられる。三章は「サンヤマ章」と呼び変えてもいいほどに、その話題はサンヤマに終始する。八支則の目的は、サンヤマ獲得にある - と言っても過言ではない。」(p254)

と、ある。

集中力は、精進(I‐20、五力のひとつ)と、心を安定させる瞑想(I-33-39)とクリヤー・ヨーガ(II-1, 2)と八支則の最初の五つを通して、煩悩を弱めることにより、比較的容易に得ることができる、のだそうだ。

『魂の光』では、集中の段階を以下のように分けている。

1. 集中する「対象」を選択する。
2. マインド意識を肉体の表面から撤退させ、外的な知覚と接触の経路(五感)を静め、意識を外に向けないようにする。
3. 意識を集中させて、頭部内の眉間の中心にしっかりと置く。
4. 集中の対象として選んだものにマインドを集中し、そこにしっかりと注目を置く。
5. その対象を心象化し、想像力を用いてそれを知覚し、それについて論理的に考察する。
6. 特定の個別的なものから一般的で普遍的なもの、つまり宇宙的なものへとメンタル知覚を拡大する。
7. 考慮している形態の背後にあるものに到達しようと試みる。つまり、その形態の原因であるアイディアに達しようと試みるのである。

「この過程は意識を次第に高め、熱性かが顕現の形態面ではなく生命面に達することを可能にする」(p244)のだそうだ。

まず、形態、つまり、「対象」から始めるのだそうだが、対象には四種類ある。

1. 外的な対象。神のイメージ、海外、自然界の形態のような。
2. 内的な対象。エーテル体のセンターのような。
3. 様々な美徳といった特質。その際に、これらの美徳を得たいという願望を目覚めさせて、パーソナリティの生活の一部にしようという意図を持って行う。
4. メンタル的な概念、つまり、生命を吹き込まれたすべての形態の背後にある理想を体現するアイディア。これらは象徴もしくは言葉の形をとることがある。

かなり具体的に書かれている。

ヴィヴェーカナンダは、ダラーナを「マインドを十二秒間ひとつの考えに保つこと」としているそうだ。

他の対象や考えが意識に全く入ってこない、という状態を保つのは極めて困難だそうだが、12秒間でもできたならば、真の集中が達成されようとしていると言える、のだそうだ。

12秒!!


2 集中(ダラーナ)を続けることが瞑想(ディヤーナ)である。
(瞑想とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。)
(禅定(ディヤーナ)とは、そこ(凝念(ダーラナー)に置いて、想念が一点に集中しつくす状態。)

『図説』は、禅定(ディヤーナ)は、凝念(ダーラナー)の発展系である、と表現している。

雑念が全くない、ダーラナーの瞬間の次に、注意散漫の瞬間が来て、また、雑念を放ち、念を凝らす対象に戻る。これを何度も繰り返す。しかし、注意散漫、雑念が起こらず、毎瞬、唯一の対象に集中が途切れることなく続けられるとき、ディヤーナーと呼ぶ、としている。

『魂の光』でも、二つの違いは時間という要素だけである、とある。

「その人の態度は純粋な注目の固定になる。肉体、情緒、周囲の環境、すべての音や光景は目に入らず、脳は瞑想のテーマつまり種子である対象と、その対象に関連してマインドが形成する想念だけを意識するようになる。」(p247)


3 チッタが、リアリティであるもの(つまり、形態に具体化されたアイディア)に吸収され、分離性や個我を意識しなくなった時、それは觀照つまりサマーディと呼ばれる。
(三昧とは、この瞑想そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。)
(三昧(サマーディ)とは、それ(禅定(ディヤーナ))に置いて、じつに対象のみが光り輝き、おのれ自身は空(シューニャ)のごとくなること。)

『図説』は、禅定(ディヤーナ)では、<対象>に集中する<自分>がいるが、<自分>が<対象>に集中することに没入する時自我が消滅し、<自分>と<対象>の対立、ないしは二元性は融解し、《対象》だけがある状態をサマーディであると言う。

『魂の光』では、觀照(サマーディ)の状態において、

1. 脳意識、つまり、時間と空間に関する物質界での理解。
2. 瞑想過程の主題に対する情緒的な反応。
3. メンタル的な活動。

は、ヨギの視野にはない、としている。

マインド・スタッフや欲求性質の妨害を受けない時、ヨギは、

1. 魂意識への没入
2. 感覚知覚の世界である三界階からの解放
3. 人間以下、人間、人間以上のすべての魂との一体性の認識
4. イルミネーション、つまり、顕現の光の様相の知覚

の四つの顕著な特性を帯びた状態に「入る」。


4 集中と瞑想と觀照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。
(同一の対象についてこれらの三者【集中、瞑想、三昧】をなすことが、サンヤマ〔制]と呼ばれる。)
([集中、禅那、三昧の]三つは、ひとまとめにして、総制(サンヤマ)[と呼ばれる]

『図説』では、この三つをまとめてサンヤマと呼ぶが、あえて三つに分けているのは、そのプロセスが重要であるからであろう、としている。

『魂の光』は、完全に集中した瞑想する能力、サンヤマの修得により、

1. 自分自身をマインド、情緒、物質的な存在の三界から解放する。
2. 意のままに注目を焦点化し、マインドをいつまでもしっかりと維持できるようになる。
3. エゴつまり魂、霊的人間の意識に集中できるようになり、マインド、情緒、欲求、感情、形態とは自分自身が別の存在であることを知る。
4. 低位人間(メンタル状態、冗長、物質原子の総和)を、低位三階と意のままに交流するための単なる道具と認識するようになる。
5. 觀照する能力、つまり魂の領域へと向かおうとする真のアイデンティティの態度を獲得し、人が肉眼で物質界を見る方法に対応する感覚で魂の領域を見ることができるようになる。
6. 自分が見たものを、統御されたマインドを経由して脳に伝達し、その結果、真我とその王国についての知識を物質界の人間に伝えることができるようになる。

のような結果を引き起こす。

「ラージャ・ヨガ体系の目的は瞑想する能力を獲得することである。」(p251)

実は!これよりさらに高位の意識があるとのこと。

「非常に高い段階であるが、肉体人間のうちに驚くべき効果を生み出し、彼を様々な現象へと導く。 」(p251-252) のだそうだ。


5 サンヤマの結果として、光が輝きでる。
(サンヤマ〔制〕の修了によって、知の光が生まれる)
(それ(総制(サンヤマ))の勝利より、般若(プラジュニャー)が光りかがやく。)

『図説』は、サンヤマが修得されて三昧の境地が深まると、霊妙なる光(プラジュニャー)が発せられるとしている。それは、識別と超能力を可能にする、魔法の力の精髄(シャクティ)である、と。

『魂の光』では、その能力を

1. 知覚のイルミネーション。以前は見えなかったものを脳意識において知覚できるようになる。
2. 意識の透明性。すべての問題を説明し解決する能力だけではなく、「明快に話す」能力が成長し、世界において教えを示す勢力の一員になる。
3. 洞察力の輝きだし。形態の「内側を見る」能力、主観的なリアリティに到達する能力。それは自分の中にあるリアリティと同じ。
4. 知性にイルミネーションをもたらす。隠れたものごとを脳に伝達し、印象づけることができるようになる。

としている。

1の知覚のイルミネーションの過程は次の通り。

a 瞑想
b 魂つまりエゴ意識への編極
c 觀照。つまり、知ろうとするもの、調べようとするもに魂の光を向ける。
d その結果として、突き止めた知識が「イルミネーションの流れ」に乗って、スートラートマ(魂の糸、白銀の糸、磁力的なつながり)を経由して脳に降下する。この糸はマインドを通過するため、マインドにもイルミネーションをもたらすことになる。伝達された知識に対するチッタ(マインド・スタッフ)の自動的な反応で生まれた想念が次に脳に印象づけられ、その人は肉体意識において、魂が知るものを認識するようになる。彼はイルミネーションを受けるのである。


6 このイルミネーションは徐々に起こるものであり、段階を追って発達する。
(サンヤマ制〕は、段階的になされるべきである。)
(それの[実践は]、諸段階に適用される。)

『図説』は、三昧には階層があるとして、第一の書で見た

・サヴィタルカー、ニルフィタルカー、サヴィチャーラー、ニルフィチャーラーのサマーパッティ、ニルビージャ(無種子)のサマーディ

が、それであると解説している。

『魂の光』では、界層を意識しているようではなく、

「何事も一度に達成できず、長きにわたる地道な努力の結果として達成できる」(p254)とある。

「堅忍、我慢強い努力、日々の小さなことの達成は、感情的で気まぐれな人の猛烈な全身や熱狂的な努力よりも価値がある。発達を過度に強いることは非常に明確かつ具体的な危険を起こす。」(p255)


7 ヨガの最後の三つの方法には、それ以前の方法よりも奥深い主観的な効果がある。
(これらの三支【集中・瞑想・三昧】は、それ以前の五支〔禁戒・勧戒・坐法・調気・制感〕よりも内的である。)
([総制(サンヤマ)の]三つは、以前の[禁戒(ヤマ)などの五つ]よりも、内的な支則。)

『図説』は、支則は外的と内的に分けられているとし、

「身体行為の戒律である①ヤマ、②ニヤマはもちろんのこと、③アーサナ(姿勢)、④プラーナーヤーマ(呼吸)、⑤プラティヤーハーラ(感覚)が外的と思われてくると、それらは背後に去り、自覚の向こうに脱落する。」
そして、
「⑥凝念(ダーラナー)、⑦禅定(ディヤーナ)、⑧三昧(サマーディ)が、内的に想われてくる。」(p266)

と、説明している。

『魂の光』も同じように説明しているが、さらに、

「ヨガの八つの方法そのものはすべて、思考を超えた霊的な意識状態、つまりどのような思考の種子とも離れ、形態がなく、統合、認識、同一化、ニルヴァーナ意識といった用語(それでも不十分ではあるが)でしか描写できない状態への準備を人間にさせるものでしかない。」(p255)としている。

「理解を可能にする内的器官を発達させるまでは、初心者が理解しようと試みても無駄である。」(p256)だそうだ。


8 しかしながら、この三つの方法でさえも、対象に基づかない真の種子のない瞑想(サマーディ)から見れば外的なものである。それはチッタ(マインド・スタッフ)の識別的な性質の影響を受けることはない。
(これらの三支さえも、無種子三昧にとっては外的である。)
(これ(総制(サンヤマ)も、無種子(ニルビージャ)に対しては、外的支則。)

『図説』の解説は、種子と無種子、対象のある・なしで説明している。

「サンヤマの状態においては、心の働きが滅しても、心を構成している三グナは活動しているから、心の転変は無くならない。

集中→瞑想→三昧のプロセスは、対象に関連した実践である。
無種子三昧には、対象がない、対象の最小の核の種子(ビージャ)すらもたぬ。」
(p267)

『魂の光』でも、その解釈は同じようであるが、知覚の二つのタイプとして、

「生きているものの知覚と生命の知覚。魂の働きの知覚と魂そのものの知覚。」(p257)と表現している。

「自己、つまりすべてといったいであり認識とエネルギーがまさにその性質である全治にして全能なる知るもの以外は何も残らないのである。」(p256)




by phytobalance | 2018-12-28 21:33 | アリス・ベイリー・AB