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魂の光 第一の書 スートラ12~16

『魂の光』の講座4回目は、スートラ12~16を学んだ。

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毎回、5つくらいの文献からのスートラ比較表が準備されている。それぞれのスートラの捉え方がわかるように、その解説がコンパクトにまとめられている。

『魂の光』は、神智学系秘教の概念にもとづいたヨーガスートラ解釈だから、オーソドックスな解釈や、わかりやすくかみ砕いた解釈を合わせて学べるのは、ヨーガスートラ初心者の私にとってはとっても有難いのだ。


それでは、スートラへ。
以下、スートラ赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。


12 内的器官であるマインドのこのような変異は弛みない努力と無執着によって統御すべきである。
(これらの心の作用は、修習と離欲によって死滅される。)

『インテグラル・ヨーガ』では単に「心の作用」としているが、「内的器官であるマインド」は、もちろん『魂の光』での追記であり、秘教独特の解釈である。

さらにこの「内的器官」とは、肉体器官ではなく、
「・・・マインド、様々な永久原子、そして様々な鞘の中のフォース・センターといった活動のセンターを指す。」(p41)

とあり、これらのセンターの放射がもたらす結果が外的な肉体器官だという。
例えば、脳はマインドの外的器官、というように。
ちょっとイメージし難いが。

マインドなり、心の作用なりを統御、または死滅するという「弛みない努力」または「修習」、そして、「無執着」または「離欲」について、以下のスートラが解説する。


まずは、「弛みない努力」「修習」から。


13 弛みない努力とはマインドの変異を抑制しようという不断の努力である。
(これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習である。)

弛みない努力は、絶え間ない実践を要する。一日に何分かだけ、ではなく、常時それに携わらなければならない。

その不断の努力とは、
「霊的人間がマインドの変異つまり揺らぎを抑制するために、そして移ろいやすい低位サイキック性質を統御して自分自身の霊的な性質を十分に表現するために行う不断の努力である。」(p42)

そして、
「このようにしてだけ、霊的人間は日々物質界において魂の生活を送ることができるのである。」(p43)

簡単ではない。
そう簡単に魂とつながれないし、つながって生活などできない、ということだ。


14 獲得すべき対象の価値をしっかりと見定め、その達成に向けて中断することなく忍耐強く努力しつづけることで、マインドの安定(ヴリッティの抑制)が得られる。
(修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、確固な基礎を持つものとなる。)

「魂への強烈な愛、そして魂を知ることに必然的に伴うすべてのものへの強烈な愛があって初めて、熱誠家は着実にゴールへと導かれるのである。」(p43)

なるほど~。
愛。「魂への」愛!!
なんか、新しい認識。
生半可な気持ちでは、魂とつながることなどできない。

「目指す目標 - 魂との合一、その結果としての超魂とすべての魂との合一 - がどのようなものであるかを正しく認識しなければならない。マインドの変異を支配し、その結果としてすべての低位性質を支配できるようにする十分に強力な努力を行う前に、なぜそれを達成したいのかを正しく見極め、獲得すべき結果を極めて熱心に求めなければ(つまり愛さなければ)ならない。」(p43)

大谷翔平選手が浮かぶ。
極めて熱心に求め、中断することなく忍耐強く努力し続けているのだ・・・。

あのレベルで向かわなければ、魂とはつながれない・・・。
世界トップクラスのレベルだ。
これを十分認識しなければならない。

「これを十分に認識した上で、(低位性質を)征服し支配する努力を中断せずに続けるならば、変異の抑制が何を意味するかを意識的にますますはっきりと知る時が訪れるであろう。」(p43)


次は、「無執着」「離欲」について。


15 無執着とは、俗世的もしくは伝統的、この世的もしくはあの世的な、欲求が向けられるすべての対象に対する切望からの自由であるということである。
(見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(無執着)である。)

「無執着(non-attachment)は不渇望(thirstlessness)と言うこともできる。」(p44)

物質存在の象徴も欲求がその特質であるアストラル界の象徴も水。
つまり、水である物質も欲求も渇望しない(thirstlessness:渇きがない状態)、ということだ。

言葉はうまくできているね。

「どのような対象への切望も存在しなくなったとき、また再生誕(これは常に「形態表現」つまり物質的顕現への切望がもたらす結果である)へのどのような欲求もなくなったとき、真の不渇望が達成され、解放された人間は低位三界のすべての形態に背を向け、真の救世主になる。」(p45)

ここで、「無執着」または「離欲」と表現されているのは、原典の「ヴァイラーギャ」。
面白いことに、ヴァイラーギャとは、「色のない」という意味だそうだ。
水でなくて、色。

『インテグラル・ヨーガ』にはこう書かれている。

「どんな欲望でも、心にその欲望独自の色づけをする。あなたがここに色づけをした瞬間に、さざ波が形づくられる-ちょうど、静かな湖に石が投げ込まれると、波が立つように。次から次へとそうした欲望によって心が揺れ動いているときには、心には平安や休息はない。そうして、そういう動きを止まぬ心によって着実な修練をすることはできない。」(p55)

あれ、やっぱり、水が出てきた。:-)


16 特質つまりグナから解放されたとき、この無執着を達成した結果として、霊的人間についての正確な知識が得られる。
(プルシャ【真の自己】の悟得によってグナ【自然の構成要素】に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲である。)

『インテグラル・ヨーガ』では、通常のヴァイラーギャ(離欲)は、
「心が何かを欲してもそれを制御し、心にむかって「否」という。するとそれはとどまる。だが高次のヴァイラーギャでは “執着”を云々することもない。」(p64)
としている。

つまり、制御する、という行為が必要な段階では、まだ至上の離欲には達していないということだ。

『魂の光』では、これを三界の限定からの解放、というふうに表現しているが、さらにその先と言えそうな説明がある。

霊的人間とはモナドのこと。
進化過程の頂点に達すると、三界の限定から魂を解放するだけではなく、魂そのものさえも含むすべての限定から霊的人間を解放する、とある。
目に見える客観的な顕現からの自由、無形態状態が目標である言う。(p48)

霊的人間についての正確な知識、とはこのことか?

さらに、

「グナとは物質の三つの特質であり、大宇宙のエネルギーが質料を動かし活気づけるときに生み出される三つの影響である。三つのグナとは -

1 サットヴァ霊のエネルギー父 リズムつまり調和のとれた波動 モナド
2 ラジャス  魂のエネルギー 子 機動性つまり活動性 エゴ
3 タマス 物質のエネルギー 精霊 惰性 パーソナリティー

この三つは、唯一なる生命を表現する三つの様相それぞれの特質に対応している。」(p45)

お馴染みの三様相♪

「三つのグナすべてを使い、形態の使用を通して完全な経験を獲得し、対象や形態への執着を通して意識と知覚と認識を発達させ、すべての手段を活用し終えたとき、(ロゴスとしての、もしくは人間としての)霊的人間はそれ以上それらを使う必要はなくなる。その結果、グナから自由になり、執着の結果として形態をまとうことはなくなり、今の私たちが推測しも無駄な新しい意識状態へと入るのである。」(p45)

対象や形態への執着も、意識と知覚と認識を発達させるために必要なものである、ということ。

と、聞いて安心するのは、進化してない証拠^^;

すべてを経験し、もう使う必要がなくなった時、霊的人間は形態をまとわずに、意識の次のステージへ行けるのだ。

これが、霊的人間の正確な知識だ。

今の私たちが推測すらできない意識状態へ達しないと、霊的人間の正確な知識などわからない、、
のだろうね。


ふふふ。ここまで学んで、実は、結構すんなり入ってくる。
全く違和感ないのだ。秘教的な解釈は・・・

オーソドックスな理解との違いもしっかり理解せねば。





by phytobalance | 2018-05-29 20:32 | アリス・ベイリー・AB

魂の光 第一の書 スートラ4~11

『魂の光』の学び、2カ月目に入った。

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前回から始まった『ヨーガスートラ』本編の学び。

前回は第一の書のスートラ1~3を学んだが、
要約すると、

・(この教えは)ヨガ(合一)に関するもの
・マインド鎮めることで、ヨガ(合一)が成し遂げられる
・ヨガ(合一)することにより、本来(ありのまま)の自身を知る

ということになる。

極めてシンプル。

多くの人が、意識的にか、無意識的に自分探しをしているが、
まさに、その方法を伝えてくれている、、という感じ♪

合一、というのは、固い感じだけど、これは、いわゆる、魂とつながる、ということ。


さて、つづき。
今回は、スートラ4~11。

以下、スートラの赤紫文字『魂の光』黄色文字『インテグラル・ヨーガ』のもの。



4.これまで内なる人間は自分自身を自らの様々な形態と、そしてその活発な変異と同一化してきた。
(その他のときは、【自己は】心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ようにみえる】。)

これは、自分を自分としてみなす時、例えば、自分は女性である、とか、会社員である、ということで、脳にある概念と同一化している、と『インテグラル・ヨーガ』は説明している。ちなみに、心の作用の部分の原文は、サンスクリット語「ヴリッティ(VRITTY)」である。

『魂の光』では、「形態」ということに重きをおいて説明している。世の中で私たちが認知するものほとんど全てが「想念形態」なのだが、それはその性質上、活発で移ろいやすい「変異する」ものである、という。私たちは、そのようなものと自身を同一視している。


5.マインドの状態には五種類あり、快楽か苦痛を免れない。つまり、苦痛であるか苦痛でないかのどちらかである。
(心の作用には五種類あり、それは、苦痛にみちたもの〔煩悩性のもの〕、あるいは苦痛なきもの〔非煩悩性のもの〕である。)

五種類あるのは、原文では「ヴリッティ」であるが、『インテグラル・ヨーガ』では、心の作用、『魂の光』では、マインドの状態、としている。

『魂の光』に、
「原典には「快楽」という言葉は出てこない。」(p30)
と、説明されている。
通常は、「苦痛でない」と訳されるが、その根底にある考えは認識への障害物であるとし、それは相反する対をなすものによって引き起こされるので、あえて、「快楽」としているらしい。

また、マインドの状態とは、アストラル的(情緒的)な反応だけでなく、低位マインドの作用も含めるとしている。
(秘教的には、マインドには、高位マインドと低位マインドがある。)

この5種類のマインド状態が、それぞれ、苦痛か快楽である場合があるので、5x2の状態がある、ということになる。


6.これらの変異(活動)とは、正しい知識、誤った知識、空想、受動性(眠り)、記憶である。
(それらは、正知、誤解、ことばによる錯覚、睡眠、そして記憶である。)

マインドの状態の5種類を示している。
それらひとつずつを、次のスートラ7~11でひとつずつ説明している。


7.正しい知識の基礎になるのは、正しい知覚、正しい推論、正しい証言(つまり正確な証拠)である。
(正知のよりどころは、直接的知覚、推理、および聖典の証言である。)

『魂の光』には、
「マインドは知識を得るための手段である・・・マインドが知覚器官になるべきものであるということを認識しなければならない。」(p33)
とある。

これは、現在私たちが五感を自動的に使っているように、マインド自体が知覚器官として自動的に知識を得る、ようにならなくてはならない、ということ。つまり、そこには、思いを巡らす、などということが介在しない、ということ。そのようにして得られた知識こそが、正しいものなのである。

これは、私が5年間秘教を学んできた中でも、あまり気に留めていなかった点(どこかに出てきたかもしれないが)。マインドが知覚器官になる!!自動的に知識を知覚する!!
まさに、進化以外の何ものでもない!?


8.誤った知識とは、存在の状態に基づかずに、形態の近くに基づくものである。
(誤解は、あるものに対する知識が、その実態に基づいていないとき、起こる。)

「外的なもの - すべての自然王国のすべての生命が自らを表現している形態 -に基づく知識、推論、決断は(オカルティスト)にとって真実ではない虚偽の知識であるということである。進化過程のこの段階においては、どのような種類の形態も、内在する生命にふさわしい十分な表現ではない。」(p35)

これは、スートラ7の説明から理解できる。
マインドが自動的な知覚器官として、働かない限り、真実をそのままのこととして、理解はできない、ということである。この進化段階では難しい、、のだ。

「魂だけが正確に知覚する。」(p36)


9.空想は、実在しないイメージに基づくものである。
(【基礎となる】実態がなく、単にことばだけを聞いて生ずる心象は、ことばによる錯覚である。)

「人間自身が思い浮かべたものである限り、そのようなイメージは実在しない・・・それは人間自身のメンタル・オーラの中で構築され、人間自身の意思や欲求によってエネルギーを吹き込まれたものである。そのため、注目が他の場所に向けられたときには消え去ることになる。」(p36)

これは、理解に難くない。

しかし、「エネルギーは思考に従う」というルールによって、作り上げた空想は、エネルギーを与えられ続けることにより、長い間維持されてしまうこともある。それに、養分を与えることをやめれば、消えていくものなのだが。


10.受動性(眠り)はヴリッティの休止状態(感覚の無知覚)に基づくものである。
(無を把握の対象として成り立つ心の作用が睡眠である。)

ここで、『魂の光』版、ヴリッティの解説。

「ヴリッティとは、使用した感覚と感じられたものの間の意識的な関係によって起こるマインドの活動である。メンタル作用の特定の変異、つまり「私は私である」という自覚がなくても感覚が活発なことがある。そのとき、その人間はそのような感覚には気づいていないが、自分が見て、味わい、聞いているということには気づいており、「私が見て、私が味わい、私が聞いている」と彼は言う。この事実を認識できるようにするのがヴリッティ(つまり、五感に関係するメンタル知覚)の活動である。」(p38)

「マインドの正しい活動と正確な使用がヨガの目標であり、感覚が遮断されたり萎縮したりした「空っぽの心」と呼ばれる状態や受動的な感受状態はヨガの過程に含まれない。」(p38)

「ここで言う眠りとは肉体の睡眠状態のことではなく、ヴリッティが眠りに陥ることを指している。これは第六感覚つまりマインド以外の感覚の接触が打ち消され、マインドが感覚の活動に取って代わることである。この眠りの状態おいて、人は幻覚、惑わし、間違った印象づけ、憑依の危険にさらされることになる。」(p39)

ヴリッティとは、使用した感覚と感じられたものの間の意識的な関係なのだから、マインドが動いていても感覚が遮断されてしまったら、ヴリッティではない、つまり、眠りに陥っていることになる。それは、危険な状態である、と言っている。



11.記憶とは、既に知っていることにしがみつくことである。
(過去に経験し今も忘れていないものを対象とする作用が意識に戻ってくるとき、それが記憶である。)

「この記憶とは様々な認識のいくつかの集合に関するものであり、その認識には活動的なものもあれば潜在的なものもある。記憶とは知っている様相のいくつかの集積・・・」(p40)

と、いうことで、
1.思考者が物質界において知った、目に見える客観的なものについての想念イメージ
2.過去に起こった欲求とその満足感についてのカーマ・マナス(欲求低位マインド)的なイメージ。
3.メンタル的な訓練からえた結果、獲得した知識の集積、読書や指導から導き出した結論といった記憶活動。
4.五つの低位の感覚知覚から生じたものとして記憶が保持し認識している様々な接触すべて。
5.記憶形成能力に隠れているメンタル的なイメージ。
に、分類される。

「このような形の記憶能力はすべて捨てなければならず、もはや保持すべきではない。それはマインドの思考原理の変異と認識しなければならず、したがってヨギが限定とあらゆる低位活動からの解放を望む前に支配しなければならない移ろいやすいサイキック性質の一部と認識しなければならない。この解放が目標である。」(p40)

かなり厳しい。
裏返せば、今ここへ意識を向ける、ということなんだろうけど。
スートラ7の正しい知識を得るためには、これら過去から得た全てのものが障害になるから、ということでもあるのだろう。

ヨガの道は厳しいね。





by phytobalance | 2018-05-19 23:04 | アリス・ベイリー・AB