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春を迎える姿

春が来た!
と思ったばかりなのに、今日は冬に逆戻り。
既にコートが軽くなっている分、余計に寒い。

でも、東京のど真ん中の桜達は、なんとなく太って温かみを帯びている。
冬と同じ、葉を落とした寂しいままなのだけど、枝の先が太って見える。


昨年の暮れ、ボロ市でブナの木を手に入れた。
ブナを自分で育てられるなんて思ってもみなかったので、ちょっと嬉しかった。
子供のようにはしゃぎ気分で、友人のブナ博士に報告をした。

「やっぱり、ブナは、自然の中で育つのがいいんだよ。」

当たり前のことを言われたのだけど、少ししょげた。

「でも、せっかく手元にあるのだから、しっかり観察してね。」

はい、博士。
ブナの鉢は、窓から一番見やすいところに置いてある。
毎日毎日必ず見る。
でも、春になっても、ブナはいっこうに変わる気配がない。
桜みたいに少しは太って見えるかと思っていたが、買った時と全く同じ姿だ。
少し心配になってくる。


もうひとつのこの春の新しいお客様は、昨年の夏に来たロシアンセージ。
うちに来てからは、終始枯れ姿である。
本当にちゃんと芽が出てくるのだろうか。と思わせるほど、ジーッと枯れていた。
2週間ほど前、小さな芽が顔だしているのに気づいた。
まだまだ小さい芽なのだけれど、もう一息!


そして、セージの足元には、小さな緑の傘のような苔がきれいに並んでいる。
上から見ると、ムーミンの(古い?)のニョロニョロみたいだ。
ホントは、長い柄を持った、オシャレな傘の装いだ。


こうして、皆、それぞれの姿で春を迎える。

昨日の強い強い風が、深くて重い心の蓋を吹き飛ばし、少し軽やかに私も春を迎えている。
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# by phytobalance | 2006-03-13 22:38 | 日常・Daily Life

春が来た

大きな風が渦を巻いて、モーツアルトの調べをさえぎりながら、荒々しく部屋に侵入してくる。
カーテンはバルコニーの柵の向こうに持っていかれた。

「いよいよ春だな。」

レースのカーテンを、破れないようにそっと引き戻そうとした時、ムスカリが咲いているのに気づいた。


このムスカリは、もう7年くらいうちにいる。
咲きかけている花を買ってきて、その年と、翌年花を咲かせたきりであった。
しばらくは、ちゃんと水をあげていたのだが、細長い葉がボウボウに伸びるだけで、花は咲かなくなってしまった。

いつからか、あまり気にしなくなった。他の鉢にはちゃんと水をあげているのに、ムスカリにだけ水をあげない時も多々あった。
それでも緑の葉は、周期的にボウボウになり、そして枯れる。
伸びきって、お化けのように垂れ下がった沢山の長くて茶色の枯れ葉を、一応むしって、気やすめに鉢を落ち着かせる。
そんなことの繰り返しだった。
もう、土を入れ替えて、別なものを植えようとさえ思っていた。
でも、何故か実行には移さず、また、春を迎えた。

そんなムスカリが何事もなかったようにきれいな紫色の花を咲かせた。
いくつもの花が咲いているのである。

数年もの長い間、この小さな鉢の中で、どんな営みがあったのだろうか。
ろくに水もあげなかった時もあったのに、どうやって過ごしていたのだろうか。
生命力を感じる。


小さくても、つくしんぼうのようにニョキっと元気よく伸びたムスカリ達を見ながら、長い間気に掛けなかったことに、罪悪感を覚えた。

端においてあったこの鉢を真ん中に置いた。せめてもの償い。


長く伸びきった緑の葉っぱ達は、相変わらずダラっとお化けのように垂れ下がっている。
春の日差しを受け、緑色と紫色が美しく輝く。

本当に春が来た。
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# by phytobalance | 2006-03-12 21:41 | フラワー・Flowers

落ち込むという感覚

初めて「落ち込む」という感覚を知ったのは中学生の頃だった。
中学2年生だったか。
学校の敷地から駅へ向かう道は、途中から線路に沿っている。
丁度、道が線路と平行になる、電車がトンネルから出たあたりでのことだった。

私の理解の限りでは、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下に」を読んだからだ。
もはやどんな話だったのか覚えていない。
ただ、頑張っても頑張っても報われない?そんな話だった??気がする。

落ち込む感覚は、数日続いた。


その他の感情や気分については、いつ覚えたのか、いつ最初に認識したのかなんて、全く覚えていない。ただ、この「落ち込む」感覚の最初だけ、ずーっと意識的に記憶している。
その日は、茶色のプリーツのスカートをはいていたような気がする。


大学生になってからか、社会人になってからか、やっともう一度「車輪の下に」を読んだ。
ある時から、また読んでみよう、とは思っていたのだが、実際に再度読むまでには時間がかかった。

2度目に読んだ後、何故以前に落ち込んだのか全く理解できない!と感じたことを覚えている。そんなに落ち込むような話ではなかったのだ。
でも、話の内容は覚えていない。全く覚えていない。


これを書きながら、今、ふと、思った。
2度も読んだのに、しかも、特別な位置づけにあるはずの話なのに、内容を全く覚えていないなんて、もしかすると、そこに何かが隠されているのかもしれない、と。見たくない何かが。

今、ふと、もう一度読むべきなのか、と、感じた。
正直、読みたい気はしてないのだが。


私がほとんど文学書を読まないのも、もしかすると同じ理由なのかもしれない。


ブログを書き始めたほんの数分前には、考えもしなかったこと。
今日、何故、「車輪の下に」について書こうとしたのかは、少しだけ落ち込み気味だった夕方、その過去の記憶が甦ってきたからだった。ある気分を生まれて初めて感じた時のことをここまではっきりと覚えているなんて、面白いと思ったからだけだった。

でも、これで、私はまた「車輪の下に」を読まなければならなくなった。

気が重い。
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# by phytobalance | 2006-03-11 23:19 | 心・Heart&Soul

雨に思う

昔から雨の日はあまり好きでない。
特にシトシトと降る雨。なんとなく気が沈む。

今朝から東京は雨である。


高校生のある日、化学室の窓からシトシトと降る雨を見ていた。
一緒に化学部だった友人が、
「私、雨の日けっこう好きなのよねー。」と言っていた。

雨の日が好き、なんて、少々格好つけているな、と思ったけど、同時に、この子は、この雨の日の情緒を感じる事ができるのだなー。とも思った。その頃のわたしは、そこに、「さび」感があるのだろう、とは思っていたけれど、それに感じ入ることをできる人間ではなかった。


スクーバダイビングのとあるツアーに参加した時のこと。小雨の日だった。
ダイビングから戻ってきて、ガイドをしてくれたインストラクターが淡々と言っていた。

「ダイビングは自然という場を借りて行うものです。だから、晴れの日でも楽しめ、また、雨の日でも、風の日でも楽しむ事ができるのが、真のダイバーの姿です。」と。


わたし達は、自然という場を借りて生きているのだ。だから、晴れの日でも、雨の日でも楽しむことができるのが、真の生きる姿、ということか。

コンクリートに囲まれて、首都高が走る中に住んでいると、なかなかそうは考えがたい。
ただ、いつも雨の日に思うのだが、なんとなく街が洗われる感は、ある。そして、雨上がりの翌日は、確かにきれいな都市の姿を感じる。美しいとさえ感じる時がある。


コンクリートの中を傘をさして歩く。
頭の直ぐ上の傘の屋根と暖かいジャケットに挟まれた空間に程よく冷たい風がよぎる。
気持ちよかった。

雨の日の少し嬉しい瞬間だった。
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# by phytobalance | 2006-03-10 16:37 | 日常・Daily Life

心の痛み

数日前の夜、小田急線梅ヶ丘のホーム。
なかなか来ない各駅停車をボーッとしながら待っていた。

すると、少し覚めてきた最近の心の痛みについての考えが浮かんできた。
何で心が痛くなるような結果になったのか、もう何度も何度も何百回も考えた事が、その時は、ボーッとした頭に、ボーッと浮かんできた。

すると、タイムトリップをするかのように、昔の事が浮かんできた。
全く違う事なのだけど、やはり、心が痛い事柄だった。
ボーッとしながら思い出したのだけど、あまりに昔の事で、そのシーンすらもはやはっきり浮かばない。でも、思い出すのである。

もう、涙もあふれない程昔の出来事だけど、ボーッとしていたホームで心臓が急に痛くなった。思えば思うほど、心臓が痛かった。涙は出てこない。心臓が痛んでいた。

痛みながら思った。

「これは面白い。」


心臓が痛くなることは、ある。心が本当に痛い時、心臓が物理的に痛くなるのである。
皆が経験していることだと思う。

そして、それは、その痛みが癒えるまで、しばらくたっても思い出すと起こるのである。
私の場合は大抵涙と一緒である。
時が立つにつれ、その心臓の痛みは、次第に概念的なものになって、物理的に痛むことはなくなる。それでも涙はあふれてくる。つまり、私の場合、心臓の痛みが消え、最後に涙が消えるのである。


それなのに、ボーッとしながら昔の痛みを物理的に感じたのである。
涙無しの痛みの再現である。

面白いから時々やってみよう、等と思っていた時、ふと、結局自分の心の痛みは癒えてないのではないかと気づいた。もはや悲しんでもいないし、引きずってもいない。過去に起きたその事に対して、感謝こそすれ、恨み等もない。確かに何よりかも、「痛かった事実」だけが、はっきりと残っているのだけど、それはそれで、ひとつの記憶、私を変えてくれた感謝すべき記憶として残っているのかと感じていた。もう長い間。


あぁ、結局まだ癒えてないわけー??


ん、じゃ、泣いていいよ。そして、痛んだ心に話しかけた。
辛かったんだよね。悲しかったんだよね。泣いていいから。泣きなさい。泣きなさい。

でも、涙は出てこなかった。

心臓だけが痛んでいた。
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# by phytobalance | 2006-03-09 19:54 | 心・Heart&Soul

ハーブのちから

数年ハーブを勉強し、そして、ハーブを仕事にしている。

でも、ハーブはとっても沢山の種類があって、いろいろ飲む事はできても、例えば、「このハーブは、○○○に良い」といわれていたとしても、自分が○○○でなければ、なかなかその良さが実体験できない。

今日は、ハーブのワークショップでクローブを使った。
クローブは、お料理でおなじみのスパイスだ。

クローブと言えば、歯痛である。
クローブに含まれるオイゲノールという成分の作用だそうだが、これは歯医者さんの匂いの源!だし、歯痛の薬にも使用されている。

珍しくここのところ歯に痛みを感じていたので、さっそく周りのヒトの目を盗み、クローブをそのまま痛い歯で噛んだ。

すごっ!少し苦味を我慢しながら噛んでいるうち、歯痛は止まってしまった!
嘘みたいなことである。

ホントにクローブって効くんだ!!!?
これで私はすっかりクローブの信者と化する。


幸いにも健康そのものの自分は、自分のからだをハーブの人体実験に使うことがなかなかできない。それでも、人並みに女性の3大症状+肩こりは、しっかりと持っている。

ちゃんと人体実験、いや、実体験をするからこそ、自信を持ってクライアントさんにアドバイスしていけるのだなぁ、とあらためて感じた。


こうして、クローブは一瞬のうちにお薦めリストのトップに並んだ。
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# by phytobalance | 2006-03-08 21:35 | ハーブ・Herbs

竹と遊ぶ

もうひとつの里山プログラム。森の中で何か作るらしい。
楽しそうだけど、苦手科目だな。

小さい時からアート系は、決して嫌いではなかったけど、上手くできなかった。
実家には、兄弟が小学校の頃描いた絵が一枚ずつ額に入れてあるが、私のはない。
トラウマかな。


竹を切って、その竹を使って好きなものを作る、という竹細工遊びだった。
竹の増殖力はとにかくすごいらしい。そのままにしておくと、全部が竹林になりかねない(?)とか。だから、まず、森に必要である竹を切る事、をしてから、そこで切った竹を使う、というおつなプログラムなのだ。

それは嬉しい。木を切るのは好きだ。チェーンソウを渡されたりすると結構はまるタイプ。
でも、竹は手動ノコギリで切る。


そういえば、高校生の頃、学校の敷地内の竹林を畑にするとかで、皆でかなり細めな竹を、この時は、カマで刈っていた。だんだんコツを覚えて調子に乗って刈っていた、ある瞬間、竹でない感触を受けた。自分の左手の小指の付け根にざっくりやっていた。きれいな血が沢山出てきて、切れ目はとてもきれいだったのを覚えている。5針くらい縫って、翌日テニスの試合に出た。サービスの時、宙に伸ばした左手の包帯が青空を背にとても美しかった。


と、一瞬タイムトリップをしてから、竹を切る。
簡単に切り倒せた。もっと切りたかった。と、いうか、私はずっと竹切り担当をしていたかった。

作りたいものにあわせて、自分の切った竹をさらに好きな長さに切る。
その後、思い思いの場所に散って、竹細工遊びをするのである。

コップにしよう。節の前後をノコギリで切るだけでできそうだ。4つくらいつくれるだろう。
ノコギリは楽しい。コップならナイフで細かくやらなくてもすむだろうし。
竹を長めの輪切りに切り始めた。

で、気づいた。ちゃんと平に切れてない。どれも平でない!!
それに、同じような高さにできない!全然ばらばら。
いくらかマシにできなければ、持って帰るのもめんどうだし、かさばるし。

急遽、初心者にお薦めという竹箸に変更。
コップ用に切った竹をナタで縦に割ってもらう。
結構かっこいい光景だ。

おぉーー、そして、「竹を割ったような」という表現を実感する。

細く縦に割ってもらうと、もう既にお箸っぽい。
ふふ、これならなんとかなるかも。。。

するとナタ使いのガイドさんが、少し幅の広い部分を渡し、
「これは、スプーンになるわよっ!」と。

「ホント??」

その瞬間、私はスプーンに決めた。

何故か、この瞬間、どーやって作る、とか、ナイフをどーやって使うとか、自分が物を作るとどういうことになるかとか、そんな考えはよぎらなかった。スプーンを作るのである。


その竹の切れ端を持って、森へ向かった。

そして、だんだん不安になっていった。。。


(気が向いたら、続きを書きます。)
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# by phytobalance | 2006-03-07 10:59 | 森・Forest

暗闇からの贈り物

里山プログラム夜の部。ナイトウォーク。

念のため、と、密かに予備の懐中電灯をバックに潜ませていたが、なんと、灯り無しのウォークだった。

「灯り無しなので、いつものように視覚に頼ることはできません。ゆっくりと地面を踏みしめながら歩いてください。いつもとは違う足の感覚に出会うかもしれません。」、ガイドの方が言う。

なるほど、いつも足で歩いているけど、視覚に多大なる依存があって歩いているわけである。
今夜は、足だけが頼り。ふむ。

歩き始めると、目がだんだんなれていく。あまり見えなくても自然と目は地面を見る。
暗がりに白っぽい石などが、ボーっと見える。
やっぱり視覚に頼っている。でも、足はいつもより丁寧だ。
いつもより小石を感じるし、いつもより微妙な傾斜を感じる。
ちゃんと、足は、地面を読み取りながら歩くものであることを知る。


いよいよ暗闇になれてきた頃、この暗がりにぴったりの何かの声。
列は止まり、耳を澄ます。
んー、鳴いている。
フクロウだった。すごい!!
生まれて初めて聞くフクロウの声。
こんな声なのか。

すると昔、森の中でフクロウに出会ったことを思い出した。
鳴いてはいなかったが、フクロウは目の前にいた。
皆でフラッシュたいて写真を撮った。
その後、フクロウの目は大丈夫だっただろうか、と心配になった。
そんなことがあった。でも、どこだったか、誰と一緒だったか覚えていない。


10分足らず歩いたら、ウォークはそこで終わり。
そこで、火をおこした。私にとっては、久しぶりのキャンプファイヤーだ。
火が燃え始めると、皆、黙り込み火を見つめる。人間の習性か。

私も火を見つめていた。
火の形を見ていた。
イメージしていた火の形とは全然違った。
その形は、とても言語化できないけど、これまで思っていた火の形より、怖い感じで、お化けみたいだった。
火の一番外側がきれいな緑だった。こんなに緑だったっけ?
火だけを見ていても面白かった。


チーズとホットワインが配られた。
うまい。
皆もぐもぐとチーズの感触を語りながら、お皿を回した。


なんとも言えない、平和で穏やかな一時だった。
懐中電灯は、いらなかった。
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# by phytobalance | 2006-03-06 14:24 | からだ・Body